2017年12月8日金曜日

高齢者の死に思う

日本の超長寿を支える高度な医療技術の数々。

もちろんその技術にはいろいろな幅とアプリケーションが有るわけですが、病院にいる超高齢者の多くはかなりの割合で人工的な栄養や水分摂取に頼って延命しているというのが実情です。

国によっては経口摂取ができなくなった時点でもうそのようなことはしない、と割り切ってしまう国が多いのですが、日本全国に散らばる”療養病棟”では実際のところ胃瘻、経鼻チューブ、IVHが色々と混ざったアプリケーションで毎日のように延命が行われております。

それが良いかどうかというのは別にしても、技術的には可能ですので、親族の方が居られない方も、また、居られる上で更に延命を望まれる方には特に強い目的を持って、これらの技術は使われております。
実際に医師だけが集まるネット上のフォーラムではこれらの処置に関しては”自分が関わっている医師も含めて”批判的な意見が多数を占めているのが現状なのですが、実際に日常の現場に戻ると・・・というジレンマを抱えているわけです。

これが日本の長寿を支えている大きなファクターの一つなのですから、果たして日本の平均寿命というのにはどれほどの意味があるのかと誰もが疑問に思うことでしょう。もちろん私もそういった疑問は抱いているのですが、高齢者の療養者病棟に戻ればそういう疑問を強く持つ己自身がやはりそのような方法を使ってしまうという大きな矛盾。

自然に、痛み無く、可能であれば自宅や親しい方々に囲まれて最後を迎えると言うのは理想ですが、全部とは言わないまでもそのうちの一つでも、二つでも達成した上での最後を迎えることを国民のコンセンサスとして広めていくのは大切な教育だと思います。まあ、難しい問題ですので、そう簡単に割り切れるものではないのですが・・・。

健康寿命の延長こそが本当の国民自身の目的の一つなのでしょうが、実際のところ寿命という押し返せない細胞のタイマーを巻き戻すだけの医療技術はまだまだ目の前には登場していません。老いても生きたいという望みと、愛する人を生き永らえせたいという思いがあるのはこれまた自然、しかしそこには何らかの哲学と倫理が必要な時代になっています。

自分のファミリーはどうかと言うと、自分の両親も自分も75過ぎてものが食えなくなるような事態になったら、そのまま最低限の輸液だけでゆっくり自然に逝きたいというコンセンサスが既に成り立っております。

0 件のコメント: