2016年10月27日木曜日

アメリカの大学の入学者選択の基準をみて

アメリカにおける長女と次女の大学入学を経験して考えたことは日本とはかなり視点の異なる選考の基準でしょうか。

間違いなく事実として言えるのは一発の試験で人選をするという事はないということ。そして次は可能な限り多面的にその人物を評価していくということでしょう。この多面的評価というのは文字通り”超”が付くレベルで多面的で、基本は”我々の大学”をきちんと卒業できるレベルであるかということがまず中程度から上の大学では当たり前に満たされていること。そして、その入学生が”我々の大学”に何をもたらすかという将来の予見も専攻基準に含まれていると感じます。

入学難易度という意味でレベルが上がれば上がるほど、入学選択時の応募者数に対する受け入れ者数が減れば減るほど、当然の如く学校での”日頃の”成績やSAT・ACTの数値化しやすい項目が高いのは当然入り易いとしても、それが高くない学生であっても可能性が残されていないわけではないということ。これは単にスポーツ入学などというものだけではなく、応募者の多様性をきちんと評価していわゆる”お勉強”だけが出来る個性のない優等生タイプだけで大学を埋め尽くさないようにするということも大切だと”現実のレベル”で理解できているからだと思います。

日本の大学は昔はまず勉強でしたが、次に来たトレンドでは本質的に意味を履き違えたOA入試と一芸入試でしたよね。w

その間違ったOA入試でサイエンスを学ぶところに入ってこられた挙句、駄目教授に間違った教育を施されてやらかしてしまったインチキ・サイエンティストのO保方という”偽物”に厳重に厚塗りされたインチキ論文という金メッキを施された人物が作られたわけなんですが、日本は海外の、特にアメリカの表面的な部分だけコピーしてその本質的な意味や内包された深い問題を理解しないままに文化や慣習の違う日本にそれを当て嵌めて”やらかす”ことの何と多いことか。

アメリカがこういった試験を行う前提として、歴史的、人種的な背景を抜きにしては決して語れないものが重層的に存在することをすっかり抜きにして、その表面だけを移し替えても成功するわけないのに、なんでどいつもこいつも”選考基準の多様化”という言ってる本人たちも意味わかってるんか?というような言葉のもとに入試を実施していくんでしょうか。

もしアメリカの方法を真似すると決めたとしても、アメリカの失敗と成功をどちらもキチンと観察して正しく評価してから方法論を検討しないと、バックグラウンドの違う生徒たちに同じ型を当て嵌めたところで上手くいくはずがないとは思わないんでしょうかね・・・。

これから人口の大減少が始まる”人材以外の”資源なき日本。文字通りの国破れて山河ありにならなければ良いのですが。

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