2016年5月2日月曜日

最近のメルセデス

最近クルマを買おうかなと思ってディーラーをウロウロして試乗してみたりネットで価格や物の口コミを調べたりしていることは少し前にここに書いたのですが、いろいろと考えることがありました。

一昔前のようにクルマというものは多くの日本人にとって本当に実用性を求める対象になっているということがいろんな意味でわかってきたような気がします。。
今の中国を見るとわかりますが、車を持っていること自体がステータスである時代からクルマのサイズや価格がステータスになる時代を経て国が消費社会として成熟していくとやがては”本来の意味”でクルマが持っている実用性とvalue for price、そして個人が本当にこだわりを持ってクルマのデザインで車を選ぶ時代にシフトしているのだなと。

しかも成熟した選択眼を持った消費社会の時代になると個人個人の選択の軸が全く独立してくるため、実に多種多様な価値を持ったクルマがお互いにその存在を気にせずに走っているのではないかという気がします。
その中で以前は陸の王者という意味でドイツ御三家の中でもとりわけ社会の成功者のステータスシンボルのように取り扱われたメルセデスもその意味付けが変わってきている、というより変わらされている気がします。

発展途上国の第三国ではイザ知らず、今時のドイツでは若い世代を中心にメルセデスは年寄りの乗る古い価値観の上に成り立ったクルマという位置づけがあるという記事を読みました。
そのなかで、メルセデス自身が変わらなければならないということで、価格帯を下に振ったクルマを用いて若い世代からも”欲しい”と思わせるクルマを最近大量に出してきているのですが、私は明らかにクルマの造形が雑になっているな〜、と強く感じます。

無論、これは極々個人的な感想ですから誰にとっても屁のようなものですからそれっきりの意見で誰も困らないのですが、昔の「最善か無か」というダイムラー氏の言葉を体現したような無骨ではあっても象にのっているような安心感と乗り心地を持ったクルマはもう造っていないという感覚があります。

相変わらず良く壊れる電装系は友人達からの話からも今でも変わらないということでそこはご愛嬌ですが、何だか内装も?というような感じ。材質にこって金はかかっているし、ギミックも充分先進性を求めて金を欠けているんだけどそこには一昔前にきちんと存在したようなメルセデスが本来持っていた信頼という言葉への統一感を感じません。ハッキリ言って新しく出てきているシリーズの内装のがっかり感は個人的には相当なもので、何だか世代が新しくなる毎に博物館に展示する価値がなくなってきてませんかね、って言う感じの変化を遂げております。

クラス展開ももう訳がわからないほど車種もバリエーションも増えてきていて、本当にこれで品質管理が出来るとは到底思えないような数です。いくらメルセデスであろうとも絶対に各々のクルマの作り込みとか「ムリ」でしょう。

こんなこと続けてるとレクサスに長い時間かけてやられますぞ・・・。(別にメルセデスの肩を持つわけではないんですけど今のままでは確実にレクサスのスジの通った戦略に侵食されそう。20年程前に乗ったBMWの乗り心地には当時の日本車と雲泥の差を感じたものですが、今では日本の高級車もすっかり一部の車は走りに値段なりの凄さが出てきた気がして驚くばかりです。)

結局は評判ではなくて、お金がほしい企業になってきてるんじゃないかな?
最後まで残るのはポルシェだけか?いや、モーターが電気か水素になった時はまた別の勝負か。

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