2015年10月29日木曜日

日本人の作業効率

日本というのは「長い時間仕事をする」ということ自体が美徳とされる国だと思います。

長い時間仕事をするというのが、少なくとも内容にかかわらず「頑張ってる」ということで評価されているのは日本においては間違いないのではないでしょうかね。
私自身の職業的倫理観も少なくとも日本を発つ前は完全にこういった感覚に依拠している感じでした。

実際、医者の仕事をしていても自分が頑張って働いた分、自分がどんなに疲れていようとも、次から次へと発生する患者さんの急変へ対応し続けることが出来る充実感というものに満たされていました。
しかしある日、声が突然出せなくなってきて、右の脇腹に異様な感覚が襲ってきました。
それが生まれて初めて経験する帯状疱疹であると気づくのに時間はかかりませんでした。

結局のところ体は実に正直で、如何に充実していると頭が感じていても、身体のオーバーヒートは免疫能の低下という形をとって「その体の支配者たる自分の脳」にそれ以上身体を連続して動かし続けることのリスクを知らせてくるのだと言うことを実体験として学習した私でした。

翻って日本の仕事人っていうのは身体に無理をかけないような仕事をしているのが標準的と言えるでしょうか。ブラックと言う言葉で簡単に話を纏められているような事が多いと感じるのですが、いろいろな組織での仕事の質を改善するにはやはり各職場における適正な人員配置というのが必須だと考えます。

作戦の立案と同じで、日米の「人使い」に関する考え方の違いは先の戦争の内容を振り返るまでもなく、熟練者、初心者構わず「個人の犠牲」そして最終的にはそれを美化する事を良しとする社会の”雰囲気”が有るため、なかなか日本の社会における「労働時間の長さ=頑張り=努力=善」という流れを断ち切れない要因になっているのではないでかと思います。

人のスキルや経験を最大限効率的に使いたいというのであれば、結局のところその一人一人を大切に使う、長く使うというのが必須だと考えます。
そしてそのためには安く使い捨てにすること無く、蓄積された経験や知識に充分経済的な対価を払って組織が採用したその人達に教育や投資を続け、より一層その人の内側に資本を蓄積し組織や社会にそれを還元してもらうというのが本筋だと考えてます。

人という人的資源そのものを大切にしない社会や組織は一時的にどんなに栄えたところで、超長期的には必ず衰退し立ちいかなくなっていくというのが、歳を重ねて来て変わってきた私の信念です。
一流企業にはそういった「余裕」というものがあり上記のようなことが比較的上手くなされているのかもしれませんが、本当に組織として長期に亘って反映したければ「中の人」を最大限にrespectするのが結局のところ最適解だと信じます。

身体だけでなく、心も無理の上に無理は重ねられない。
例えそれが若い頃であっても、やがてはそれが続けられなくなる瞬間がやってくるのが世の必定なのではないかと。幾つかの病院や組織で生きてきてそういう思いを強くしている今日このごろです。

日常が全て仕事だけで塗りつぶされている家庭人は、誰かの大きな犠牲(殆どは家族の誰か)のもとに物事を進めているのだと思います。
それが本当に世界の進歩のために役立つレベルの人は本当に一握りの人であって、それだけの犠牲を払ってまで全ての時間を捧げないような仕事をしている人は殆どいないでしょう。

そうなる前に組織は人員の適正配置を行っていくのがどの国であろうとも多くを占める”普通の”組織の正しい組織論の本筋だと私は考えます。

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