2010年9月29日水曜日

日本の大学院教育・続き

私がコメントできるのは実に私の経験した医学部での大学院教育に限られますので、あくまで暴論ということで、、、。
私の大学院時代は既に20年ほど前の話になってしまいます。(歳がばれますが、まあ気になさらず。)最初から癌関係のことを学ぼうと思って腫瘍の勉強を始めました。免疫学、分子生物学、細胞生物学、表面糖鎖、腫瘍抗原、医科生化学等、やることはてんこ盛りで、医学部学生時代の怠けたつけが一気に表面化した見事な白紙(白痴)状態でした。しかしヤルとは言っても特にそれらの授業があるわけでもないのです。
「そんなの当たり前」と言われる方も、「日本的には」沢山いるかも知れないのですが、医学部で極短期間に学んだことはハッキリ言えば少なくともここんとこまではコンセンサスとして認められている、「教えても間違いないであろうかなり基本的な知識」までであって、実際に仮説に基づいて実験を始めてみると、発表されていることの、しかも新しいと言われる知見の多くは、まだまだ要検証というような事が多いことはこの世界の人なら誰でも知っている周知の事実です。
しかし、そういうことに気づくまでの痛々しいステップや、研究者としての基礎的な訓練は誰かについてミッチリやらないと、実際我流ではなかなか上手く行くものではありません。もっと端的に言えばどんな人に最初に習ったかでその後の進路や研究の質が大きく影響されてしまうのです。無駄というか、ただただ無為に過ぎていく時間の量も、指導者がきちんとしていればかなり違ったものに変換することが出来ます。
指導者の考えを聞き、討論し、セットアップを一緒にやってみて、失敗しても成功しても自分で悩み、その結果に解釈を付して次の一手を指導者と共に再検討するという地味な作業の繰り返しで一人前の研究者は育っていくものなのでしょうが、通常、日本の大学院でそんな事が真剣に行われているとは寡聞にして知りません。
アメリカに来て初めて知って愕然としたのはティーチングデューティーという名目で大学院生には通常お金が支払われ、かつ、ポスドクといえども日本の米粒ポスドクとは違って、しっかりキャリアの上でのプラスとして大きくカウントされ、先ず間違いなく次のポジションでは給料の額が上がることです。博士だかバカセだか判らないような扱いを受けることはあり得ません。
もしそうなっていないのだったら、昨日の記事にあったように、大学院に入るためのステップに問題があるか、大学院の中での教育に問題があるかしか考えられないですよね?大学院をでたものが企業からかえって使えないと言われるような自体を生起せしめたのはどこのお役所だったのでしょうか。(名前を書くのもいやですが。)
ポスドク1万人計画はその悪しき一例です。毎度変わらぬ箱物行政を人にまで敷衍した結果がどうなったかは、2010年のポスドクの悲惨な実態を見れば、それがゆとり教育と並ぶ「糞計画」だったことはバレバレです。一時的に奴隷的労働力となった博士号取得者達は取り敢えず運が良くてかつ必死に予算の多いところで働ければ、いわゆる御三家の雑誌等に「共著者として」名前も載ったかも知れません。しかし、その後のキャリアパスがないところでそんなものを持っていても、いわゆる猫に小判状態です。
いわゆる打ち上げ花火という奴でその他は何も無し。大規模実験に組み込まれて日がな電気泳動をやらされてるとか、ウェスタンの準備で三年過ごしましたとか、そんな人たちのはなしも予算潤沢なT大系のラボであったという話を内側の人から聞いたこともありました。そんな人企業が使いたくなるわけありませんよね。(笑)
もし中身のない博士を増やしているのが日本の大学院だったら、それは自業自得の結果だとしか思えないのです。(無論、何時でも例外はありますが!)優秀な人材を排出し続けるラボに良い人が集まりその再循環というのは当然あるのですが、それが余りにも少なすぎませんかね。

結果が出ない>論文が出ない>予算が付かない>人が来ない>ラボの衰退>退職

皆この経過を「少なくとも大学と大学院の教授は」いつでも例外なしに受け入れるべきだと思います。そうすれば日本もアメリカのように新陳代謝が活発になるでしょう。

いつものようにブログに書く暴論でした。

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