2008年12月2日火曜日

幸せを感じるとき

私の尊敬する先輩研究者が、その上のPIから話されたという話を一つ。(この手の話は対象を変え、どこかに良くあるものとは思いますが。)

ここにコップに半分だけ入った水がある。
このコップの水を見て「まだ半分ある」と感じるか、「もう半分しかない」と感じるか。
それがその人の生き方に結びついている。

こういうものでした。
私はそれを聞いて、心からその通りだと思いました。
自分は宗教とか信心とかには全く関係ない日常を送っているけれども、やはり仏教やキリスト教、果てはコーランの中に書かれている言葉の中にも、短いけれども人生の本質を抉り取るような鋭い警句が沢山ありますし、それに反省される事もしばしばです。何かに幸せを感じるときというのは自分にとってどういう時なのかつらつら考える事がありますが、どんなサイズのものであれ、困難が自分の前を通り抜けたときに感じる事が多いと思います。また、自分の日常が何もどでかいドラマが無いという事、例えば子供達が普通に学校に行って良い点を取ったとき、長く上手くいかなかった実験が、プロトコルを変えてみて実験が上手くいき、面白そうなデータが出た時等、、、。
しかし何かネガティブな事が起きたとき、実際に感じる幸せは何か。(実際に私の身にも大手術を要する大きな良くないイベントが起きたのですが。)やっぱり普通に元気に朝起きて、ご飯を食べて仕事をし、子供の寝顔を見て家内ととりとめも無い話をすることだなと感じます。子供の学校の成績、大事でしょう。仕事の成果、大事でしょう。しかし、一度家族のみに何か起きたときに思うのは、「そんなことどうでも良いから先ずは元気が何より!!」という事です。家族が幸せであれば自分の身などどうなっても良いと心底思いますし、健康こそは何よりも大切な事なのだと本当に思います。
やがて自分も大きく歳をとり、小さいころにはまとめて抱え上げ、悪い事をしては叱っていた子供達からやがては包み込まれるようになる時が来るのも実はそんなに遠くない時期なのかもしれません。全ての事は順繰りに歳の順番に回ってくるのだと思います。
自分が何に幸せを感じるのか、つまらない事で日常の充分に幸せな何気ない生活をそうでないものとして捉えるような事をしていないのか、いつも振り返り、振り返りしつつ注意していかなければならないと思います。テレビドラマのように皆が皆、ジェットコースターのような人生を送るわけでも無し、その必然性もまた無いと思います。普段の日常の中での楽しい事、面白い事、恥ずかしい事、頭にくる事、うれしい事、悲しい事、その大きさの大小には様々有ると思いますがそれこそが市井の人の普通の生き方だと思います。
コップの水の量をどう捉えるかは自分自身の生き方を決めるという事でしょう。

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