2008年12月31日水曜日

大晦日

今年もいよいよ終わり大晦日。
日本と大きく違うのは大晦日という感覚の無さである。もう本当に年末にかけての慌ただしさというのはクリスマスまでで終わってしまって、その後はただの休みの日という感じで特に何もない感じがする。大学の方もまあ、PIは来ていたり来ていなかったりだが、学生はほぼ来ない。(感心な事に私の学生達は二人とも今日も来ていた。いつも自分で考えて最も効果的な時間帯で実験を行って下さい、と言ってあるのだが、彼らの大人としての自主性に任せてあるので強制では無い。)来年もNIHグラントの提出、授業、実験、論文提出とまた忙しい年だろうが、健康に気を配ってしっかりやっていこうと思う。まあ、出来る事をしていくしかないのだろうから。

日本の両親、家族、親戚共々元気であって欲しいなと思う。2008年の年末。

2008年12月30日火曜日

休日モード

アメリカの年末はクリスマス前の数日を除けば日本のように気忙しくはない、どちらかというと皆が家でおとなしくしているという感じだろうか。学生も冬休みは多くが実家に帰省して羽を伸ばす。私のところのマスターコースの学生も二人とも一時帰省したが今はもう戻ってきて実験をしている。しかし余り気乗りしない様子で、モチベーションが下がっている子もいる。理由は一つ明確なものがあって、約一ヶ月前にこの大学の歯学部への入学が許可された為に、今している実験から学位を得る特段の理由が無くなってしまったのだ。これは喜ばしいことだが、実験をしている私にとってはまずいことになったと思ったがその危惧していたことが起きつつある様な気がする。私のところで働いてこの大学の審査における評価を上げるというストラテジーというのはまあ、入学の可能性を格段に挙げるという意味では普通の方策ではあるのだが、それが終わったら実験も終わりということではないので、きちんと学位論文を仕上げるまで手綱を緩めないようにしなければならない。ここら辺が新米指導者の辛い所で、CO-MENTORSHIPの名のもとで学生を指導していた頃は最終的にはこのような場合の手綱を締めるのは上級の教授でよかったのだが自分がなってみると結構学生に甘いな~と思える部分があり、なかなか厳しい手綱捌きが要求されている。ただ上から押し付けてもこの手の学生たちは動くものでもないのでそこら辺は自前の香辛料を持ってきて薬味を加えたり変更したりしなければなるまい。

一年経ったら白髪が出てそうだ。(笑)

2008年12月29日月曜日

17日間はやはり長かった

ようやく私の二週間ちょっとの子守も今日で終わる。
「やっと」という言葉はこの日のためにあったのではないだろうかと思えるくらい待ち遠しかった。今回の子守で気づいたことは、子育てにはやはりバランス感覚が必要だということで、具体的には親父側からの一方的押し付けでは、長い間にわたる親子関係では子供が精神的にかなり疲れるだろうと思えたこと。片方が子供に注意をしているときにはもう一方で子供たちの精神的な避難所が必要だということです。そういう意味では片親で子育てをしているのにきちんと娘さんや息子さんを立派に成人させている父子家庭のお父さんは本当に立派だと思います。人間的に私には到底無理だと思います。もう一つ気づいたのは、母親の「女性としての」包容力と「男性としての」包容力というのは質ではなくて種類が元から違うものだなとの事実に思い至りました。幸いにして未熟な父親である私には配偶者が寄り添ってくれていますのでこの父の日と賭しての未熟さゆえの荒々しい「包容」も、母親によって補完される事によりまっとうな形をとるわけで、この点は深く感謝しなければなりません。最後に記録しておかなければならないのは掃除、洗濯までは良くても、食事という一点においてはとても嫁さんの敵ではないという事が良く判りました。そういう意味では今後は更に美味しい食事に対しては毎回もっと大きな敬意を払わなければならないなと思います。
今この時点で、あと六時間で嫁さんの飛行機がテキサス経由で日本から到着するわけですが、ラボで安心して仕事ができるのも「嫁さんが健康で傍にいてくれるから」ということを再認識させられた今回のイベントでした。

子供たちはトランクいっぱいのお土産が待ち遠しくて仕方ないみたいです。無理もないか。

2008年12月28日日曜日

子育て

親になって一回きりしか出来ない事が有る。それは一人一人の子育て。
何人育てようとそれぞれの子供達がそれぞれ異なったキャラクターを持っているため、どの子を育てる時にも同じように育てるわけにはいかないし、同じようには育たない。つまり、どんな子を育てても、その子に対する子育ては成功しても失敗しても一回きりなのだ。今日は久しぶりに次女を厳しく叱った。何度言っても本当に使ったものや食べたものを片付けないので、カウントダウン方式で今度したらこう、今度したらこうというように猶予を毎回与えながら次第に厳しくしていったのだが今日は最後の叱責を受けてアウト。楽しい事ばかりでその片付けをしない人間はどうなるかという事をしっかりと教えた。(無論、暴力などは一切無しですが。)叱っているこちらの方が辛いのだが、子供にそんな事は伝わるまいと思うし、そんな事は実際に子育てをするまでは解らないと思う。しっかりと社会の中で自立する人間になって貰いたい為の行為では有っても本当に気の遠くなる様な繰り返しの日々だ。親としての自分が完璧とはほど遠いというのは論を俟つまでもない事では有るけれども、それでも自分が出来る精一杯の事をしてあげる事しか出来ないのだ。人の一生なんて短い。自分でも、今叱っている子供と同じ年だった時の事をマザマザと覚えている位なのだから。この子が親として自分の子供を育てるのもそう遠い先の事ではないのだ。子育ての責任はその子の子、そしてその先へと続いていく。親として子供を育てるというのは自分自身の日常との格闘とはまた別の長い長い格闘なのだと思う次第です。

2008年12月27日土曜日

日本からの入国審査

嫁さんが日本から明後日帰国してくる事になり、入国審査に関して少々心配している事が有るとの事で携帯に電話が有った。何が心配なのかと思ったら、指紋採取や顔写撮影の事ではなくて、新しく今度導入される事に決まったESTAに関する心配事であった。取り敢えず今の所は任意入力による試験期間なので問題は無い事を確認出来たが、今後はまず「間違いなく」多くの人が問題を起こして入国審査のゲートや飛行場の登場受付でリターンする事になりそうだ。そうなるのはもしかするとツアーコンダクターべったりの人達ではなくて、意外と旅慣れた人達が引っかかるのかもしれないな、等と想像してしまう。まあ、一度とってしまえば二年は有効だという様な記載が有るのでとってしまって二年後にうっかり忘れで問題を起こす人が居る様な気がするのだが、、、。私たちの場合は永住権を持っているので必要は無いのだが、観光目的の人達や商用で来た人達でこの二年間というインターバルを忘れてしまったら、アウトという事になりかねない。一体全体本当に不便な世の中になったなったものだ。テロ以前は検査は有ってもキーホルダーとして十得ナイフを付けていたりしても何の問題も無かったが、今ではそのようなものは問題外であろう。宗教は人に心の平安をもたらすのだろうが、個人的には宗教は大嫌いだ。宗教のおかげで一体全体どれほど世界の人が死んだのかカウントする事も出来ないだろう。宗教を信じる人に対しては私は構わないという態度をいつも取る、ただし、「人にその教義を押し付けない」という前提のもとで。この教祖を信じられない人は不幸だとか、あなたはこの神様を信じないから不幸が来るのだとかハッキリ言って「糞喰らえ」である。人は黙って居ても幸、不幸は順繰りと訪れるし、何をしようと遅かれ早かれやがて死ぬ、しかも「必ず」死ぬ。
私のこのようなものに対する共通する考えは「イズム」や「ドグマ」に対する嫌悪だ。怪しい奴程自分の考えを大声で唱導しようとする。真理は黙っていても真理であり、烏滸がましくも人に押し付けたり、人から押し付けられるもの等では決して無いと思う。共産主義、平等主義、アナキズム、無抵抗主義、そして無数の宗教。いずれも真実は常に両極端ではなく、その中庸というべき部分に有ると私は考えています。

入国審査の話だったのに、、、。

2008年12月26日金曜日

家事

嫁さんが日本に発って二週間、取り敢えず家の方は何とか普通に持ちこたえている。まさに「持ちこたえている」と言う表現がぴったりで、思い描いたように出来ている訳ではない。まあ、今まで家事をした事の無い新婚の花嫁さんの苦闘というのはこんな感じなのかなと自分で苦笑する次第です。こうやって後三日で嫁さんが帰国という所まで来ると段々、飛行機の燃料が切れてグライダーの滑空状態になって来ているように自分では感じます。「もう少し頑張れば後は嫁さんがしてくれる。仕事に専念できる間で後三日!!」とハッパをかけているのですが子供達が次々に出してくるゴミや洗濯物の多さに辟易している所です。ああ、自分にはやっぱり大学での仕事の方が愉しいし、やりがいが有るなと感じます。家事全般に喜びを見出して、不満も言わずに仕事をしてくれる嫁さんを持った世界の男性諸氏とその幸せを分かち合いたいです。(笑)
良妻は人を幸せに、悪妻は人を哲学者に。クサンティッペの例を挙げるまでもないのですが、ここアメリカでは哲学者になる前に我慢せず離婚してしまう人たちが余りにも多いようです。

2008年12月25日木曜日

クリスマスパーティー

今日は家内の職場にいるおばさんの御家庭にクリスマスパーティーで呼ばれた。
非常に上品な御夫人で、いつも家内を褒めてくださるのだが、こういう品の良さというのは育ちなんでしょうかね、やっぱり。家内が日本に帰省中という事を知っていてその上で我が家のうるさい三人の子供を含めて家に呼んでもらったので、大変恐縮してしまいます。ディナーとデザートを食べてその後、御主人の趣味の任天堂WIIを御夫婦の娘さんや、数日前から休暇で泊まりに来ている奥さんの双子の妹さんご夫妻も交えて対抗戦。ダーツやビーンバッグ投げをして皆大盛り上がり。結局、所有者の御主人が最も上手いという結果が出るまでああでも無いこうでも無いと言っては楽しくゲームをしました。ボーイングに勤める御主人と、日本に対する新型戦闘機の納入の話やこの前事故を起こしたF15の破壊の原因が見つけるまでの経緯など、やはり当の企業に勤める人ならではの面白い話が聞けたのが大変面白かったのですが、先に書いたゲームの波に呑まれてあまりそれらに関して長々とは話す事が出来ませんでした。
このおばさんは仕事で裏表の無い日本人の事を大変気に入っており、アメリカ大陸に親戚の居ない我々に対して「本当におばさんだと思って頼りにしなさい」といつもいつも言ってくれます。このおばさん実はもう一つもの凄いのはその玄人はだしの絵です。何度も本人に確認したのですが「一度も正式の美術教育など受けた事が無い」のだそうです。それなのにあれほど素晴らしい絵が描けるというのは一体、才能と努力以外に何が有るのかと考えさせられてしまいます。
好きこそものの上手なれというのはまさに彼女の為に有る様な言葉なんだなと思う事たびたびです。

来年は我が家のパーティーに呼びたいな。

2008年12月24日水曜日

格付け会社とは何者?

経済的な混乱からここバージニアの州政府予算も十数パーセント単位で削られるとのメールが知事経由で州政府職員に廻って来ている。これはこの夏の段階で送られて来た予算削減に追加して送られて来た物であり、昨年度にたてられた計画からすれば既に1/4程の削減にもなろうかという異常事態だ。勿論、我々の研究予算や給与にまで皺寄せは来る訳で、それはそれで大変。ただでさえ予算不足で研究自体を止めざるを得ない教授とかも実際は居る訳で、とても人ごとではない。
この大元になった経済混乱の要因はいろいろと言われているが、とにもかくにもここアメリカの碌でもない錬金術がその原因の端緒である事には間違いないようだ。昔から「金融工学」等と言う言葉を端から馬鹿にしていたのだが、やっぱりその通り愚か者どもの宴も木っ端微塵に砕け散ってしまった。100年続いたリーマンブラザーズも、跡形も無く消え去ったし、次はどこかと個人的にはワクワクしながら見守っている。糞をした後は尻を拭く。前回のブラックマンデーの時のようにはどの強欲者にも刑事罰の様なものが下りてこないのが不思議でならないが、まあ、今回は責任の所在が云々などという詭弁が「金融工学」的には成り立っているのでしょう。昔、岩波の「ガリア戦記」を読んだ後、名将カエサルに興味を持っていろいろ調べた事が有ったが、その時に兵士と最高司令官の給与の差は四倍程度が適当である、という一節が有ったと思う。省みて今のCEOという連中のボーナスは、、、。もう、「無言」である。何がそうさせるのか知らないが、この連中には会社の経営能力も無ければ恥という概念も無し。今回の査問で、リーマンのCEOだか何だかは、「あなたは4億ドルの給料をもらっていて会社を破綻させたが、何とも思わないのか」と言われ、「いや3億ドルだ」と開き直ったというから何をか言わんやである。
こんな会社を優良とついこの前まで格付けしていたあのいかがわしい会社である、ムーディーズやスタンダード&プアーズとは一体何の為に存在したのかと強く問いたい。ハッキリ言って審査能力「ゼロ」。いつものあいつらのパターンは会社が傾きかける様な風評が立った時点からその格を落として行く。高給を食み、世界に害毒を撒き散らす無能共とはこいつらの事だと思う。

富の偏在もここに極まる。

共和党は別にオバマで無くてもこれなら負けたでしょう。

2008年12月23日火曜日

英語の授業は英語で

今日から大学は休暇に入りますが、実際にはそんな事を言ってもおられず、我々研究を生業とする者はそんなのとは関係無しに大学や実験室に出入りし継続すべき事はしないといけないし家に居ても研究の事で心が休まる暇もあまりありません。なにかやっていてもそれを拭い去るのが困難だったり、朝ちょっとした事で目が覚めた後に実験の進行上で上手く行っていない部分などが気になって悶々と眠れない時間を過ごしたりします。まあ、それも仕事の楽しみの一つだったりするので困るのですが、そんな愚痴はさておいて、、、。

今日ウェブを見ていたら文部科学省がまたまた大胆な提案をしていたので、思わず記事をクリックしてみると「英語の授業は英語で」という提言内容だ。確かに実に初歩的な部分のみのイントロであり、まあこれくらいなら「どんな」英語の先生でも出来るだろうと思われる事でしたが、新聞社の反応は例によってまあネガティブな記事のオンパレードでした。(笑)新聞でネガティブに書かれているのできっと良い事なのだろうとは思いたいのですが、問題は日本の英語の先生の中にはまず「間違いなく」英語で授業を進める事の出来ない人達が居るという事です。何故か?それは簡単だと思います。その先生達が教員になった時代には英語の先生になるというのは例文解釈と文法が出来れば良かった訳で、今更会話の何のと言われても「そんな事今更言われても困る」というのが関の山でしょう。それは大学の教授の中にさえも紛れ込んでいるのではないかと(密かではなく)思っています。
教授する側はさておいて教えられる方もまあ間違いなくレベルの差は激しいはずですから、本当に英語を本格的に使った授業を始められたらどうなるか、、、結果はまあ容易に想像できる所に収束すると思われます。出来ない人はますます出来ず、出来る人は遥か彼方へ。基本的に私は教育というのはそれぞれの人がそれぞれのレベルに応じた内容を受けて進学すべきだと思っています。高校普通科進学に何が何でも(特に田舎はそうですが!)とか、大学と名のつく所に何が何でも等と言う愚かな事を試みるから分数の出来ない大学生とかが出てくる訳で、そういう人達は本来大学という所には「入ってはいけない人達」であり、それを許している様な所はその名に値しない教育機関だというのは誰が考えても明々白々でしょう。大学の数なんて今の半分以下で十分国は成り立つしその方が厳しい競争が起きて更に良くなるかとも思いたいのですが、実際はトップから上半分までの競争の厳しさは今と全く同じと想像されます。(言い方は悪いのですが、下半分は薙ぎ払われる事になります。)職業訓練学校にいく事の方が「遥かに」その人の適正に有った事も多いであろうし、更にはそういう所にも行かずに別に職を得た方が早い人も居るのです。私は真似しようと想像する事も出来ない様なレベルの職人や専業者には(たとえ主婦であっても)深い畏敬の念を抱きます。
誰もが、嫌々その意志もないのに微分方程式を理解し、生物の機能の神秘を覗き、漢文の深みを味わい、外国語を話す必要は「無い」と思います。どれか一つに特化して行くのも手だし、手に素晴らしい仕事を覚えさせるという様な事のどこが教育で無いのでしょうか。何だか優秀な機械の部品である事を人間に求めようとしている様な気がしますが文部科学省の真意は、、、。(そんなベクトルなんて最初から無いか(笑))いろんな事を出来るいろんな種類の人間が居る事のほうがよっぽどまともで健全だと思うのです。何だか英語の授業の話がまた脱線してしまった。

ゆとりとそのゆり戻し、教わる方は堪ったもんじゃないなと現在進行形で被害に遭われている若い世代に心より同情申し上げます。

国会は肥溜めの代名詞

日本の国会中継を見ていていつも大声で叫びたくなる。
これは本当に文字通り声に出して叫びたいのだ。質疑応答のレベルの低さ、議院の迫力の無さ、圧倒的な討論能力の低さに対する苛立ちからくるものです。下に貼付けた映像は YOUTUBEからのリンクで、言葉で相手を文字通り「倒す」迫力が有る。国会中継をネットで見ていて思うのは、我が国を代表する議員の討論能力がこれで良いのかということ。何か有るたびに横から小声で役所の小役人が出て来てはヒソヒソとマイクの後ろで打ち合わせをする様な状態を「醜態」と言わずしてなんと言うのか私は知りたい。これが、世界に向けて放映できる内容なのか。田中眞紀子は話が上手いなどと褒めそやす向きもたまに有るが、彼女はポピュリスト、漫談師。あんなのは討論では無くただの床屋政談の域を出ない。(その点彼女の跡を継ぐ事を頑として断る彼女の息子はその醜態に気づいているだけまともだと思う。)このような人間を選び出す選挙区の人間の「ツラ」を見たいが、まあ、選びたくても選ぶ母集団がどうしようもないのであろう事は容易に想像がつきます。残念ながら共産党や社会党、そして公明党等はその源流からして恐ろしくて到底選べる様な母集団ではないし。(笑)ITをイットとなどと呼ぶ世代の政治家は街にやってくるゴミ収集車にまとめて叩き込まれた方が日本の為に良いのではないでしょうか。では人材は無いのか、本当に払底しているのかという事なのでしょうが、どの世代にも無論、60、70代の方々の中にも素晴らしい見識と意見をお持ちの方が沢山居るのでしょうが、そういう「まともな」方達はこんなギインセンセイなどという様な21世紀で最も汚れた仕事となってしまった食など最初から所望されないのでしょうね。この画像の様な感じで議論を出来る議員が800人弱もの国会議員の中で何人居るのだろうか。手元の資料に付箋を貼ってそれを参考にしながら「自分の言葉」で議論できるのか。私は声を大にしたい。国会議員なんて今の仕事をしない議員達の数から言えば半分以下で良いと。選挙民も選挙民だと思う。未だに地元に橋を架けてくれだの、道を云々などとは十九世紀や二十世紀初頭では有るまいし、国家にお金が無かったらそんな事できる訳ないでしょう。地元の利益誘導に明け暮れる選挙民が多いとこんな事になるんでしょうか。仕事が地元に?違うでしょう。土建屋には金が落ちてもその金は結局再回収されて中央に戻るだけ。自治省からやって来た落下傘知事が三期務めてハイ終了。「中央政界との太いパイプを持っています!」(<<要するに私は知恵や政策は皆無なのです、という宣言。)というのが売り言葉の完了が地方に来てバラマキと私服肥やしに精を出すというのが常にセットになっている現状は本当に絶望を通り越したものが有ります。東国原知事が誕生した時には「彼の過去がどうであったにせよ」少なくとも旧弊を破り、政治と地方自治の勉強をし直して来た人間が選ばれたという時点で私はまだ100%日本も死んでは居ないのだなと思いました。

日本の世襲議員も何世代にもわたって発酵して来た為、良い具合に腐ってしまっているようです。まあ、毒になる程の豊かな中身は無いので、ただ肥料として畑にでも撒けば腐ったものなりには良い肥料にはならないのか?いや、劣化はしていてもプラスチックなのでただの産業廃棄物か、、、。

何だか今日は書いていて久しぶりに頭に来た。

2008年12月22日月曜日

日米格差

難しい問題ではなく単純な話を。

アメリカで安くて日本で高いもの。それは沢山有ります。私が常に感じるのはCD、DVDなどは勿論の事、実験試薬などももう「メチャクチャ」値段が違います。例えば最初に挙げたDVD、アメリカで非常に人気のテレビドラマ「LOST」を比べてみると、楽天でチェックしてみた所一番安くて11810円(送料込み)こちらのアマゾンだと($36.99=約3200円)(こちらも送料込み)公平を期して日本のアマゾンでも調べましたが楽天よりも150円ほど安いだけでした。凡そ四倍。こんなのは別にアメリカ発のドラマに限らず、映画でも音楽CDでも同様で「こちらの」常識からすると「誰か間にピンハネ屋でも居るのか?」というくらい価格が違います。まあ、売っている方からすれば「対訳を付けたから」「日本仕様に手直しするのに云々」等と言うのかもしれませんが、私にすれば「誰が買うか、バカ」という一言です。大体、CDの値段が一枚3000円とか、かなりきついジョークと思います。(笑)通常こちらではリアルなCD(ダウンロード販売ではない)が8ドルから12~3ドルで、大物が新盤を出した時でも最大で20ドル台です。それでもこちらの感覚からするともう15ドルを超える様なCDには手を出さないというのが普通で、音楽を聴く周囲の学生などはほぼ皆、ダウンロードか友達から借りてMP3にして終わりのようです。
では科学に関係するいろいろな試薬や機器はどうかというと、留学経験の多い方も今の御時勢、沢山、日本にいますので、アメリカの抗体が平均すると200~250ドル前後だというのは多くの方がご存知かと思います。最近、日本の研究者の方からある事情で抗体を送っていただく機会があったのですが、こちらで230ドルの物が日本で6万円と聞いて血圧が急降下した経験が有ります。(笑)
スーパーコンピュータの納入でも、同じ性能の物を買うのに日本は約二倍以上払っているとか最近C-NET JAPANで読みました。これでは日本がいくら金を稼いでも、追いつく訳が有りません。だって同じ距離を競争するのに二倍以上の重石を背中に背負って走る様な物ですから、もしくは鉄下駄を履かされた短距離選手ですかね。中間マージンをとっている代理店の人間達の下衆な笑いが聞こえてきそうです。20世紀的システムの色濃く残る科学製品、薬品の取引の世界は一刻も早く改善されなければならないと思います。まさか、こんな業者達と結託して私腹を肥やす様な教授連中が居る訳でもあるまいし、何で皆で揃って声を上げないのだろうか。

誰も文句を言わないし改善もしない。日本は本当に金持ちです。

追記:おお、そういえば今日は牛丼と麻婆春雨を作りました。(日本のインスタント品にちょっと手を入れただけ。(笑))

2008年12月21日日曜日

家事の毎日

嫁さんが日本へ発って9日目。
家事のパターンは完全に飲み込めたがやはりネックは食事の準備だ。掃除も一日二、三回の洗濯も全く大した事無いし、子供の風呂入れやペットの世話も容易の一言に尽きるが、、、。料理の基礎が無いのは本当に困る。子供と私だけという様な時に外食とピザなどのジャンク等の様なものにどうしても選択が偏ってしまうのがいただけない。どんなに他の事がキチンと出来てもこれが出来るのと出来ないのとでは大違いだ。ここアメリカで日本式のものを作ろうとすると材料が微妙に違ったり、無かったりという様な事が多くて(NYやボストンなどはもっと便利なのだろうが)アメリカの普通の食材よりどうしても高い値段のものを選ばなければならないのが辛い。そうなると、自然とアメリカ人の家庭で作られている様なサンドイッチ、ラップ、云々というような「安易」な物に走りがちで、嫁さんがいつも作っていた様なものとは程遠いモノになる。やっぱり少しはこういう事もしておかないと「濡れ落ち葉族」と呼ばれてしまいそうな気がします。イスラエルから帰って来た時は未だ気力十分でいろいろやっていたのにどうも、日常の忙しさにかまけて手抜きをしていたツケが今まさに廻って来た様な気がしています。(溜め息)

2008年12月20日土曜日

日本の裁判

裁判というのは日本人には本当に馴染みが薄いものだと思う。
アメリカは訴訟社会ではあるものの、やはり弁護士から裁判にするぞ等と言われると普通の人はトンでもないというのが通常の反応。詰まらない揉め事には巻き込まれたくないというのが洋の東西を問わず共通した考え方であることに変わりは無いと思う。最近、日本のほうでは陪審員制度(裁判員制度)が導入されるというのだが一体、わざわざ何のためにそんなことをするのか理解できなかったので「大義」としての導入理由を探してみるとありますあります。wikipediaにしっかりとした記述が。本当に日本でこんな制度が根付くのかきわめて疑問ですが、まあ豪快な無駄実験という気がします。多分、このままで発車するのでしょうが、内容的には大変問題があると個人的に思っています。
裁判の事を書こうと思ったのは他でもない昨日のウェブの記事でした。三菱重工ビル等の連続企業爆破事件を起こした大道寺将司の再審請求が棄却されたとの記事があって思わず口があんぐり開いてしまった事からちょっと考えてしまったのです。とっくに死刑になってこの世の人ではないと思っていたからで、二十年以上前に最高裁で死刑が確定した人間を還暦になるまでまだ裁判をしているというのはまったく私の理解の範疇を超える出来事でしかない。まあ、WIKIを見る限りでは超法規的措置で出国した共犯者が未だに逮捕されていないので云々等と書いてあるが、そんなもんでしょうか。とにかくロッキード事件にしても血液製剤による薬害事件にしろ、誰しも驚くほど何時までも何時までも裁判が続いており、結局、被告人死亡とか原告の高齢化により控訴を断念したとか、「冗談でしょ」というような事例がゴロゴロしている訳で、こんなにあれこれ抱え込んで裁判所の人間は発狂しないんでしょうか、と他人事ながら心配になってしまいます。きっと裁判所というのは「書類の館」なんでしょうね。アメリカとしか比べるものが私の場合には無いので大したことは何も言えないのですが、いくらなんでも事件が大きいからといって事の審判に10年20年というのは「やりすぎ」だと思うのは私だけでしょうかね。裁判員制度というのが裁判を良くするのなら良いのでしょうが、日本と日本人という枠組みの中で機能するのかというと、少なくともあの名作「十二人の怒れる男たち」のようにはいかないでしょう。

2008年12月19日金曜日

昨夜のゲーム

以前、カレッジバスケットにはまっていることを書きましたが、昨夜はホームゲームにも拘らず初めて「これはやばいかも」と思わせるような試合展開になりました。なんと言っても審判が酷い。どう酷いといって、双方から猛烈な抗議がこんなにたくさん出た試合は今まで見た中で初めてでした。まあ、相手のチームが監督の指令通りに動くタイプの守備重視のチームだったこともありなかなか攻めあぐねていた事もあったのですが、審判のクオリティーの低さと相手のラフプレーのためにかなり観客が興奮した試合になりました。(もちろん私も!)もう、有らん限りの罵り言葉で相手を罵倒し気の弱い選手の一人などは本当に萎縮してしまって監督にベンチに戻される始末。ラフプレーでうちのPGを倒したときなどは珍しく監督がその倒れたエースのところに駆け寄り、直接その突き倒した相手プレーヤーに詰め寄りかけました。勝ったからよかったようなものの、あれで負けていたら多分コートの上に嵐が発生していたのではないかと思うほどみな興奮していました。今年の目標は何が何でもCAAの地区優勝をもぎ取り、その後のMARCH MADNESSに突入していくというのが筋書きなので、絶対に勝ち続けるしかないのです。カメルーンからの留学生がすでに故障で今年一年は出ることができないので、もう一人も追加の故障者をリストに載せることはできません。皆がラフプレーの犠牲になったり練習中の故障を起こさないように心から祈る私です。
ゲームには長男と次女を連れて行きましたが、こちらの興奮をよそに眠そうな顔をしていましたので、SPARKLING ICEとポップコーンとSIERRA MYSTを買って食べさせたら生き返りました。(笑)子供たちにとってはルールの理解できないバスケットは少し退屈なのかなと思いつつゲーム全体のレベルは良いプレーヤーのおかげで見応え十分なものであったと感じました。

それにしても、あの審判を派遣した団体の責任者出て来い!(因みにCAAでは無いはず。)

2008年12月18日木曜日

物を食う生き物

人は物を食う生き物だということを実感させられる毎日です。
嫁さんが日本へ歯の治療のために一時帰国して子供たちに朝昼晩と食事を準備する訳ですが、本当にみなよく食べるし食事の内容に関する注文のバリエーションが豊かなことには驚かされます。私が同じような年齢の頃には食べるものは何であれ黙って食べていたものですが、食事に先立って出てくるあれが食べたいこれが食べたいという注文の多さには自分の小さかった頃とは違う何かを感じます。実際当時の周りの子達に比べて私は小食だったので、そのせいもあり自分の子供たちの食欲とその貪欲さに驚いているだけなのかもしれません。小さな頃食わなかったからといって今、自分の腹が(少々?)出ているのは間違いの無い事実だし、この歳になると「美味いもの」に対する感覚が断然発達していますので、子供の頃は見向きもしなかったような食べ物の美味しさに舌鼓を打つことも多くなります。中学位の頃に読んだ文章の一節で「食い物にこだわる様な男は大成せん」などと書いてあったので我が意を得たりと感じたこともあったのですが、やっぱりそんなことには関係なく大成しなかったので(笑)、「美味しいものを節度を持って食べる」というのは人間の生物としての喜びのなかでもいつも大切にしないといけないということなのだなと感じます。
その点ここアメリカに住んでいると嫁さんの作ってくれる日本食の美味しさに大変感激します。結婚した当初はそれまで料理を余りしていなかったということで、薄味だったり逆に濃すぎるというような事もあったのですが、一年も経たないうちに自分好みの美味しいものを次々に作ってくれるようになりました。最近ではウェブのクックパッドというのを参考にしてそれらの中で全国の皆さんに人気の高かった料理を私にも作ってくれるようになった為か、更に上手になってきたようです。結婚した当初はそれほどではなくてもこちらのほうで励まし続け、かつアドバイスを続けていけばこんなにも変わるのかと思ったのですが、、、私のほうが逆に嫁さんに味で騙されているのかなと思ったりしないわけではありません。(笑)

この味なら騙されていても良いかなとは思うのですが、この中年特有の腹はどうにかしないといけないと真剣に考えています。お腹だけアメリカンです。

2008年12月17日水曜日

クリスマスプレゼント

アメリカでのクリスマスというのはどんな感じか昔は皆目見当もつかなかったのですが、こちらに十年も住んでみると平均的なものがどういうものなのかほぼ掴めるようになりました。基本的には日本と何も変わらずバリバリのコマーシャリズムに押された祭典と言う事にはあまり変わり有りません。プレゼントが欲しい子供、プレゼントを交換し合う夫婦、プレゼントを交換し合う親子という感じで、基本的には日本の正月にお年玉をみんなでお互いにやり合う様な感じと思ってもらえば良いのでしょうか。(通常は親から子だけなのが日本のお正月ですが。(孝行息子や娘の場合は別!))堂に入っているのは(当然ですが)、家の中で木製もしくはプラスチック製のクリスマスツリーに電飾や飾りをいっぱい付けてその日がくるのを待つ事と、家にもよりますが、家の窓や庭木などに奇麗な飾りを付けて人の眼を愉しませようと言う事でしょうか。やはり少しでも敬虔なクリスチャンの家ではその庭の電飾などが結構、三賢人のモチーフになっていたりするところもあって、この辺はやはり完全にはプレゼント交換会に堕している家庭だけではないのだなという感じです。
郵便局は一ヶ月くらい前から荷物を送り出す人達で長蛇の列です。何でこんなに捌けないのという位ゆっくり列が進むのですが、まあそこはアメリカ人。基本的に気にもしてません。(特に郵便局員側(笑))日本の郵便局で待ち札のディスペンサーを持って時計仕掛けのように粛々と作業を進めて行く局員さん達の勤勉さと効率の高さが遥か過去の出来事に思えます。やっぱり、インダストリアリズムというのは初期教育が必須なんですね。こちらに来るとヒシヒシと感じます。トイザラスが日本でアメリカ程に上手く行かないのはこの差だと思います。

という訳で、何も未だプレゼントの準備をしていない私ですが一体どうなる事やら。(恐ろしい、こんな事書いてる暇にEBAY探せという心の声が、、、。)

2008年12月16日火曜日

修理完了

嫁さんが日本へ発って四日。
ようやく作り置きのカレーも底をつきいよいよ本格的に明日から自活です。(笑)昨夜の焼き肉料理は文字通り「焼き肉」と「白い飯」のみという、子供達にとっては半分虐待に近いメニューと成ってしまい深く反省。明日はリベンジかと思いましたが近所のSiSi's(結構安くておいしいピザ屋)へ行く事にしようかな、、、。
本日はホテルで行われていたFACULTY MEETINGの途中で学校から電話が入り、息子が体調不良という事で一時過ぎに急遽ピックアップ。とりあえず今の所は問題なさそうです。尚、本日長らくの懸案であった水道修理が済みました。結局、LOWE'Sのおじさんに騙され続けたメタルとプラスチックの接続は1/2と3/8のバルブ開閉式プラスチックジョイントをかませる事で難なく解決。今までの格闘が嘘のように解決してしまいました。(こんな事書いても水回りの仕事をした事の無い人には面白くも何ともないですね。申し訳ない。余りにも喜びが大きかった物でつい細かくメモとして書いてしまいました。)本日、長女はSUBWAYのサンドイッチでした。ブログ経由で私的報告まで。朝五時に起きて掃除、洗濯、子供の食事。少々ハードスケジュールです。

2008年12月15日月曜日

悲惨

嫁さんが日本へ発って三日。
早くも信号は危険水域を示す赤へ!とは言っても食事の問題だけなんですが、、、。嫁さん読んでるかい?掃除洗濯は何の問題も無く進んでいるのですが、食事がどうにもこうにもうまく行きません。自分一人でいる時はお気軽に何でも食べてそれで終わりだったのですが、家族の嗜好や栄養のバランスを考慮すれば当然お気軽モードではどうしようもない訳で、そこには当然のごとく知識と経験が必要な訳です。実験のプロトコルなら自信は有るのですが、どこに何が有るかも良く解っていない様な状況では惨めな食事しか用意できません。これはいかんと今、急いで料理の研究を始めた所です。(笑)
泥縄ですが、とりあえず何もしないよりはましだと思いますし二週間の長丁場を乗り切る為にはこれが王道と思っております。という訳でこれを読んでいる私の嫁さんも何が起きているかは薄々感じて貰えるかなと。まあ久しぶりの日本を思い切り楽しんで来てください。続きはまた書きます。
それと漏れていたパイプの銅と銅の部分の溶接は巧く行きましたが、結局百ドルプロジェクトと成ってしまって悄然。溶接のテクニックも初歩的な物ならなるほどと思える所も学習できたしそれはそれで良いのだけれど、100ドルもかけるか、、、。というところです。後はフレキシブルジョイントを探してくれば終わりかな。しかし、LOWE'Sの店員もいい加減な事教えるよな~。やっぱり頼りになるのはその道の経験者と、インターネットです。

ではまた続きを。

あ、カレーは少なくとも今日まで持たせたよ!(個人連絡)

2008年12月14日日曜日

疑問を持って生きているか

日ごろ見聞するものに対してそれを本当だろうかと「まず」疑うのは私の職業病だと思っている。
家内に言わせると素直ではないらしい。(流石、長年連れ添っているだけはある。)
そこでいつも議論になるのは「じゃあ書いてあることを鵜呑みにし、映像で見たのを何の疑いも無く信じるのか」という少し極論っぽい話と相成る。(夫婦なので、いつもこの辺の話題へは何の緩衝材も使わず突入する。)まあ、出てきたデータでも、通常三回同じ条件で再現されるまでは信じないし、人の論文で面白そうなデータを見たときもどこにロジックの穴があるのかをマテメソとディスカッションを読み込んでその著者の言い訳探しの部分を吟味するのが習い性になっているので、性格も自然ツイスティーになって来るのだろうか。こんな感じなのでもうテレビ番組でごく稀に何かを見る事があるときなどは、横に娘や家内がいると私のほうを見てそそくさとテレビのスイッチを切る事が殆どなのです。(笑)
曰く、「誰もそんなこと(嘘か本当かなんて)考えながらドラマや芸能人の番組なんて見ない」とのことですが、何時もそれに対しては「そんな事だから堂々と下らない似非科学や血液が性格論などという犬の糞のような事が事実として罷り通るのだ」といって諭します。そうすると、ますます、家人達は「は~~」と言うような感じでその場を去って行くのですが、、、。
例えば血液型性格論などというものはすでに90年以上も前から、法医学その他の科学者によって繰り返し検証を受けて散々墓場へ持ち運んで「これでもか」と土をかけられているのにまるでWATER BEDのようにあちらを突付けばこちらが出てくる、こちらを均せば向こうが出てくると言うように、凝りもせず金目当ての馬鹿共が出版する本に金を使い込む輩が年齢層に関係なくいるわけです。昔、家庭教師に行っていた学生の家でその生徒のお母さんがその手の本を読んでいたので、少し悪戯っ気を出してからかった事がありました。まず、もっともらしく誕生日その他の情報をご本人から聞いてその本をめくっていき、最後に「見つけた」とばかりにその血液型でその誕生日の人の性格とを語るページへと辿り着いた「ふり」をしてその奥さんの性格を読み上げました。(もちろん、全く関係ないページ)内容は「慎重に見えて実はおっちょこちょい、人前では積極的に動こうとしますが、なかなかその善意が理解してもらえない事も多く結構自分で空回りして疲れることの多いそんなあなた!」と言うような感じの出鱈目なものなのでしたが、その奥さんいたく感心して「そうそう、そうなんですよ~~、あるんだそういう事」といたくご満悦だったので、最後に種明かしをしたところ「人が悪い」と言われてしまいました。(笑)
イタコやスピリチュアルなんていうのは人を端から騙していると言う点では私の「人の悪さ」などとは比べることも出来ないほどのインチキだと思うんですが、、、。イタコだったら日本語を話さない人のご先祖さまを呼んでそのイタコがイタリア語やロシア語をしゃべったら信じます。これが本当なら絶滅した言語の研究なんて恐ろしく進むんですが。(笑)あのインチキスピリチュアルも洋の東西を問わずどこでもありますが(アメリカでも朝のラジオでやったりしてます。)、あんなもう「見るからに」インチキな輩のどこを信じろというのか私には全く理解できません。善人面した詐欺師以外の何者でもないと思うんですが?あんなのを信じるくらいなら道端に落ちているクオーターのほうがよっぽどご利益が有ると思うんですが。(少なくともベンディングマシンのバブルガムが一個買える!)こんなのを頭から信じる事の出来る人たちに選挙権なんて与えたらどうなるのかと心配なんですが、どうも今の日本はその心配が現実になっている様で、、、。

21世紀だろうがなんだろうが、一部の方々には科学教育って本当に浸透しないものなんですね。(溜息)

2008年12月13日土曜日

クレーマー・クレーマー

クレーマー・クレーマーという映画のタイトルを知っているとすれば私と同世代かそれより上の方と言う事になるのでしょうか。実は今日から二週間とちょっとの間、子供三人と私だけで家を守らなければならない事になりました。それもこれも家内の二年越しの歯の矯正が終了したと思ったら、そのブレーサーが接着されていた歯の中でも神経の死んでいたものがパキリと割れてしまったのでした。その上にいくつかの問題も追加で見つかったと言う事で、これを全部治療とすると保険に入っていても、クラウンを被せて容易に4000ドル前後になってしまうとのことでビビってしまい、日本の実家へ帰して安くで治療してもらうようにとセッティングしたのでした。(ちなみに飛行機は田舎への接続などの往復込みでこの時期1300ドルと少しでした。)
つまり今日から仕事をしながら子供の夕食、学校のお昼のスナック(アメリカではお弁当と言うもの以外にお菓子の時間のようなものがあります。これがこちらの子供達を太らせていると私は睨んでいるのですが)、朝の準備としなければならないのです。洗濯と皿洗いは子供達が一部分担してくれるとの事ですがどこまで当てにしていいのやら、、、。所詮子供の事ですから、こちらが脇から急かさないと動かないような事になるのではないかと少々危惧しているのですが、まあ見てみましょう。こうやって実際に手のかかる子供を持って仕事をしている片親の方々と言うのが沢山世の中にはいる訳で、私のたった二週間かそこらの家事などと言うのはまあそういう方から見れば屁のようなものなのだと思います。幸いにして私の上司はクリスマス休暇を余計に取ると良いと言う様な事を言ってくれましたが、学生も居るし、論文とグラントの書き込みのための追加データの取得も要るしで、とてもそんな悠長な事は出来そうにもありません。貧乏暇無しとはこの事か。(笑)
今朝三時半に起きて、荷物と嫁さんを国際空港にまで送り、ボーディングしたのを見届けてから暫しの別れとなりました。まあ、嫁さんに帰国後大笑いされない程には実績を作っておかねばなるまいと決意した私でした。

2008年12月12日金曜日

グーグル依存

GOOGLE(グーグル)依存。

そう言い切ってしまって良い位今の私はグーグルのウェブアプリ群に依拠した活動を行っている。例えば、今書いているこの文章だが、私の場合はグーグルドキュメントに色々と書き込み、それを適宜ピックアップしてこうしてブログに貼り付けて、少し文章に手を入れて投稿すると言うのが通常の作業になっている。
また、他の研究関係の文章の校正、推敲もコラボが出来るという事がハッキリした時点でこちらのほうに移行してしまった。現時点では機能の不足と言う点から未だ表計算とプレゼンテーションの機能は活用する迄には至っていないが、自分が必要とする最低限の機能が揃った時点で、そちらのほうに仕事の場が移行していくのは時間の問題と思われる。ノートとドキュメントは単に文章の長さだけで分けており、ウェブクリップを丸ごと貼り付けてリンク切れに対処できるのも本当に便利だ。研究上の文献検索も、データの処理も本当にここ十年で綺麗にウェブに移行してしまった。ランタイムの信頼度と便利さと言う意味ではやはりメールもグーグルのほうが私には便利だ。特に大学のメールサーバはMSのActiveXか何かの機能を使っているために、ロータスノーツ単体でメールを遣り取りせず、ウェブメールを使用するとき良く送信エラーが発生する。特にこの現象は二つ前のバージョンから顕著で、ノーツを使う意欲を削ぐ嫌な現象だ。
安心のためにデータのコピーを取り敢えずメールに添付して自分に送っておくと言うのは誰でもしておくことだと思うのですが、これが本当に7ギガの保存空間とあいまって私には非常に役立っているし、他の学生達も重宝しているようだ。
メールのフィルタリング機能の秀逸さも特筆すべきものだろう。本当に毎日毎日飽きもせず、迷惑メールは大量に舞い込んでくるが、迷惑メールを受信トレイの欄自体で見る事は本当に年に一回有るか無いかというレベルでありこれは今までのどの単体メールソフトにも勝てない特徴だと思う。マップの検索機能もそうだし、それが電話の上に出てくるのも良い。更にはグーグルアースで自分の日本の実家が鮮明に屋根の色や車の大きさまで判るのには本当に舌を巻いてしまった。おまけにグーグルの持つYOUTUBEも、面白すぎる。これだけの機能を我々が使って取り敢えず表面的には無料と言うのもまた良い。
ただし、我々は全てのプライバシー情報をこの会社に間接的にも直接的にも渡してしまっていると考えたほうが良いと思う。幾ら会社の規約でそのようなことはしていないと言われても、情報機関やその他の機関と合同で捜査されれば我々グーグル依存の人間達の日常生活など「丸裸」なのだと言う事。まあ、それを調べてもらうだけでも如何に危険でない人間かはすぐに解るかとは思いますが。(笑)最後の抵抗として、グーグルのクロームは使わないようにしていますが、この抵抗線もどこまで保たれるのやら、、、。
何かが便利になると何かは犠牲になる。ビッグブラザーはそこに居るのでしょうね。

2008年12月11日木曜日

ブログのこと

定期的に読んでいるブログがいくつかあります。無論一度読んだっきりで二度と読まないブログも沢山ある訳で、定期的に自分が読んでいるブログは、こうしてスピードダイアルに登録してある一覧を見る限りでは、自然とどれもこれもサイエンス関係の方が書いたブログになってしまいました。
政治的な主張を行うブログや文学者の書いたブログを読むこともたまにあるのですが、どうも馴染めない。大概は数回分を読んだところでその過激な主張の根拠となるものの曖昧さや、住む世界の違いから来るのかもしれない「違和感」に包まれてページを離れてしまう。例え全部の回を読まなくても、定期的に戻ってきてそのブログの過去の記事を読んでみたくなるのはやはりそういう方々の書いたブログである。ブログと言っても、何だか「お花畑の世界」を漂っているような意味不明のヘンテコリンなブログもあるし、一部のコピーを思わずグーグルノートブックに貼り付けてしまうような唸らされるブログも有る。まさに現実の社会と同じレベルで天と地ほど内容にも差があるし、レベルにも差が有るのはブログを読んでいる人なら誰でもすぐに気付くのではないかと思います。最初は人のブログを読んで様々な考え方の違いに驚いたり触発されたりするだけだったのですが、そのうち将来子供達が大きくなったときにこの時点で俺がどんな事を考えていたのか知ってもらうのも良いかなと思って、半分自分の文章練習用にはじめたのです。まあ、読み返してすぐ解るのは文章がマダマダ練れて無いなということ、そして書きたくてもとても書けない事が多すぎる事に気付いた事でしょうか。その点、公開型にしていると、「書けない事はやっぱり書かない」というのと、「どうにかして書き記す事は出来ないか」という二つの選択の間で気持ちが揺れる事になります。そのあたりを実に上手に隠して大胆にブログを書いたりする手練の書き手がいるのですが、到底そのような境地には至っていません。
因みに我が家では家内が読んでいるのはブログと言うよりも、日記や情報交換系のもので、mixiの中でカテゴライズされている「コミュニティー」と呼ばれるグループ内で実用系のものに入って色々情報通の人から教えてもらっているみたいです。例えば「ハブ空港における乗り継ぎ時間の目安」とか「美味しい料理の作り方」とか「昭和XX年生まれのXXファン集まれ」とか、タイトル見たら脱力感に襲われる様なコミュニティーが殆どで、まあ、それも良いかとそのまま触れない事にしています。mixiはどんな事をみんな書いているんだといって一度覗かせてもらったことがあったのですが、個人的な結論は「もう二度は見なくていい」というものでした。(笑)
高校一年の14歳の娘がはまっているのはmy spaceという奴で、こちらの中高校生は本当に大好きみたいです。持っていないと仲間の輪に入れないのではないかと言う位普通にみんな持っているみたいです。中には本名から何から曝している危ない子供も居るのですが、娘は偽名、偽の生年月日等を掲示していて変態からのアクセスを減らしているようです。(笑)こういうサイトを使った事件もこの前アメリカで起きたばかりで、娘のライバルの女の子に対して偽名で悪戯を繰り返し自殺に追いやった馬鹿母が逮捕されると言う事件まで起きています。サイバースペースとはいえ、キーボードの向こう側には生身の人間が居る事を周知しておくのは親の役割かと思います。

2008年12月10日水曜日

修士の学生

修士(マスターコース)の学生二人を今、孵卵器の中で暖めながら育てている事は以前にも書いたのですが、実際に二人の間に実験遂行能力に大きな差があることに気付いてかなり戸惑っています。一方はグングン進むし、もう一方は、失敗の繰り返しで特にこの二ヶ月間目立った進捗を見せずという感じ。細胞の培養の段階でそのハンドリングの不器用さに気付いたのだが、それが改善されない。次回からは採用前にパイペッティングをさせてみようと強く思っている。ただ、彼の良い点は、理解に至るまでの思考回路の流れは遅いのだが、最終的には結論を見出すし、その上で色々と良い疑問を持っている事、しかし、それ以上ではない。一方彼女のほうは理解も早く手も器用。実験の支持を与える私としては申し分ないのだが、自分から進んでその理屈上のバックグラウンドを探ろうと言う感じではない。まあ、将来は上級技官として給料を払えるレベルの子だと言う感じです。どちらが長い目で見てよいのか難しいところだが、将来的に彼らがサイエンティストになるのではなくて歯科医になる為のキャリアパスだと言う事を考えると、言われた通りの事をきちっと短時間で出来るほうが「早く一年以内に Thesisに書ける結果を出す」と言う意味では良いのかな等と考えてしまいます。
まあ、私のセクションチーフも、「マスターの学生を送り出すのはポスドクを雇うのと違って、労多くして中々アウトプットは少ない。それも教育の一環だ。」と言っていましたが、、、。だからと言って、今この時点でポスドクを雇って3-4万ドルのお金を彼らに払っていたらそれだけで私のラボはヒューズが飛んでしまうので、それは想像すら適わない選択です。(笑)こうやってマスターの学生を育てる事で、鮎の稚魚を放流しそれが帰ってきて産卵してくれるようになるまで待つのと同じように、「良い評判」を得て、その学生の紹介によって更に良い学生が入ってくる事を考えなければならないのでしょう。
禅僧ではないのですが、石の上にも三年という話でしょうか。
その間に私も学生達を指導し、授業を受け持つ人間としてのレベルアップを図らなければならないのは当然で、その一環として時々そのような授業や実験室レベルでの指導のスキルアップを図るセミナーに出席。殆どのものは「あーそうですか」とか、納得の出来ない退屈なものなのだが、先日行われた、大学で生徒からの評価の一番高い授業と表彰された生化学の教授の授業手法に関するレクチャーは「なるほど」秀逸だった。やっぱり素晴らしい人の模倣は何故それが素晴らしいかよく理解したうえで、先ずは進んでしなければならないなと感じる次第でした。独自性などというのはそのレベルを体現できてからでも充分で、そこに至らぬままに試行錯誤というのが殆どではないのかなと思います。

それにしても私が大学に居た頃の教養や学部の一部の授業のつまらなかった事を思い出すと何だか泣けてきます。知的好奇心を喚起若しくは刺激する授業の何と少なかったことよ、、、。ああはならないようにしようと思う次第です。今でも記憶に残る最も面白かった授業は、教養の数学で差分方程式を使って列車が衝突時にばらばらになる様子を式で表現できる事を習ったときの事でした。医学部を出ているのに実習以外で最も感動が大きかった授業がこれだなんて、、、。恥ずかしいです。

2008年12月9日火曜日

カレッジバスケットボール

カレッジバスケットボールにはまっている。
ふとしたきっかけで自分の大学に強いバスケットボールチームが存在する事を知り(気にかけている暇が無かったと言いましょうか<言い訳)、このチームに学生兼チームアシスタントとして勤めている日本人学生のI君からチケットを調達していただけることになり、もう機会があれば「全部」見に行っている。
みんな学生とはいえ、二メートル前後の選手がずらりと並んでダンクや3ポイントシュートを決める様は絶景。やっぱり見ていて面白いのは「自分が夢見ても出来ない様なプレー」を眼の前で見せ付けてくれる事だと思う。NBAのここ一番の凄さには到底敵わないプレーでは有るものの、日本に居ては先ずこんなプレー見る事は皆無とも言うべき動作が眼の前で繰り広げられると気分爽快になるのだ。しかも、ホームでの勝率が当然のように抜群に高いのでCAA内のチームで戦う限り、実に安心して観ていられるのも良い。チームにはそれぞれポジションによって中心となるべき選手が居るのだが、その中でもPGの上手さは驚異的で、上背こそ無いもののチームの流れが悪くなってきている時などに叩き込むシュートはやはり、神様仏様と手を摺り合わせたくなる様な時があります。これだけ上手くても、かつCAAで何度もベストプレーヤーに選ばれていても、この彼がNBAで良い選手として認識され活躍できるかどうかと言うのはまた別の話で、且つ、NBAに行けるかどうかと言う点でさえも怪しいのだと聞いて、アメリカの国技としてのバスケットボール競技人口と、その層の厚さを思い出さずには居られない。ある程度の年齢の男の子の居る家庭のガレージの前には当然のようにバスケット用のボードが置いてあり、そこで暇さえあれば男の子達がボールをポンポンとシュートているような国がバスケットが弱いわけは無いし。おまけに移民込み込みで才能のある選手が皆この国でプレーする訳ですからそのレベルも当然高い訳で、きっと日本でコーチングをしている人たちから見ればアンフェアと思えるほど最初のスタート地点が違うのだと思います。
それでも頑張る日本のバスケットチーム。ラグビーと同じで、それを支える人口層の厚さと伝統の前では、なかなか日本は色々なスポーツの中ではトップに立ち続けるのは難しいと思います。その良い例がサッカー。まあ、メキシコオリンピックのときは別としても、キャプテン翼以降で盛り上がったサッカー少年の世代は一気に日本のサッカーブームを作り上げたのが記憶に新しいところです。このブームは確かに本物で、世界に輸出できるレベルの選手を何人も輩出したと言う点では「日本人が能力的に云々」と言う前に、やはりどの国から来た人間でも出来る奴は出来るという証明では無いかと思いました。でもバスケットは上背が有るのが圧倒的に有利だし、短距離走ではしなやかな筋肉のあるジャマイカの選手にはとても勝てそうにないし、、、。うむ、これでは振り出しに戻ってしまいました。(笑)

取り敢えず、今年は我々のチームがCAAで優勝し、3月のMarch Madnessでお祭り騒ぎが出来る事を願っています。

追加:それにしても今日はアメリカのCEOの厚顔無恥・面の皮の厚さを思い知らされるニュースを日経で読み、こいつら頭がオカシイと、はっきり確認できた。実質破綻して身売り吸収されたメリルリンチのCEOセインが性懲りも無く1000万ドルのボーナスを要求し、その理由が振るっている。「経営危機が更に深刻になるのを防いだ」というものだ。馬鹿につける薬は無い。

2008年12月8日月曜日

携帯電話、車のデザイン

日本の皆さんの携帯、きっと高機能のカッコイイ携帯だと思います。

少なくとも私が使っている携帯よりは!

しかし、私が使っている携帯が特にアメリカで酷く遅れた物でもなんでもない携帯なのです。私の携帯は二年前に手に入れたsamsung t209です。どうです!悲惨でしょ?(笑)勿論カメラなんてついていないし、滅茶苦茶立ち上がりや入力にもっさり感のある電話です。だからといって持っていても周りの人の携帯とそれほど差も有りません。
こちらでの携帯、私の周囲の人はメインはほぼノキアとサムスンもしくはLG、そして少しお金に余裕のある人やビジネスマンという感じだとブラックベリーや iPhoneを使っている人たちがいます。ところが去年日本に帰ってビックリ。日本の携帯のデザインと機能の素晴らしい事、素晴らしい事。まあ日本の国内だけにいるとそうだとは気づかないのでしょうが、日本の携帯のデザインの豊富さとアップデートの早さには「工業立国」という言葉を贈って表彰するのが当然だと思いました。何やら日本ではそんな携帯の事を「ガラパゴス化した」等と言って、世界で戦えないだの何だのと喚いてるようですが、「少しは自国の物を褒めろよ?」と言いたいです。いかにサムスンやエリクソンがシェアを誇っていようが、私にとってはこの国の携帯はデザインも機能もiPhone以外はほぼ「糞」です。本当の「糞」。良くこんな酷い物に値段なんて付けるよなという様なシロモノです。こんな物でも人が受け入れてお金を払っているのですから、日本製品の優秀さは本当に一桁違うと言いたいです。こっちで売っている携帯なんてデザイン的にも機能的にも、もう「完全に」20世紀。しかもどいつもこいつも十年前の「ゼロ円携帯」よりいかなる点でも酷いのです。やっぱり商売の仕方を間違ったんでしょうね。性能では完全に勝っているのに、スタンダードに乗れなかったという事で世界に弾かれてしまった日本の携帯。その異常に高機能でデザインの優れた電話をこのデザイン力「マイナス」の国アメリカで使えるようにしてくださいな、、、。(涙)
二年契約も終了し、家族三人分の携帯をT-モバイルからVERIZONへ変えようと思っています。デジタルCOVERAGEに変わるので、通話音がクリヤに成る事を祈って。
物のデザインと言えば、アメリアに十年前についた日にある間借りを一時的にしていたおばさんの家のテレビで見たCMで私はこけました。ポンティアックグランダムだったのですが、まずテレビに一つ古いモデルのポンティアックが出て来て、次の瞬間それがビヨーンと数パーセント横にゴムのように延びるとともに台詞が、、、「WIDER IS BETTER!」これ、私には大いに笑えました。アメリカの車作りの思想はこの一言の中に凝縮されていると思ったのです。デカイ車を作り、そのデカイ車を早く動かす為に更にでかい7~8リッターのエンジンを積み、安いガソリンで走らせる。結局これだけの事なのです。もう完全に「馬鹿丸出し」何ですが、まあ筋肉で出来た脳味噌を持つ連中には大受けで、「力持ち=正義」という実に何度もアメリカが繰り返して来た過ちが車の製作(政策)にも応用されただけです。今、ビッグスリーと言う老巨木がめきめきと大きな音を立てて倒れようとしていますが、まあ、時代の変化を読めなかった企業は恐竜のように進化の絶頂で絶滅するのでしょうか。(ここ十年は進化してなかった様な、、、。)更に笑ってしまうのはメジャーな自動車雑誌が未だに(今週号でさえ!)馬鹿のように燃料を食うカマロや、コルベットの記事を連載し続けている事で、もう傍目で見ながらも「お前ら頭の中大丈夫?」と心配してあげたくなります。ハイブリッド車の記事にしても、GMが2011年に出してくると言われるVOLTを除けば、これまたばかでかいトラックの燃費を良くする為にハイブリッドを使ったりして、間抜けな事底無しです。「車自体を小さく軽くした上でそれにハイブリッドを載せろよ!」と言いたいのですが、まあもう遅いでしょうね。こんなCEOに信じられない高給を払い続ける会社に未来が無いのはまあ、水が上から下に流れる程「自然な事」だと思います。

2008年12月7日日曜日

英語の話ー嫁さん、そして私の母

英語の話の第三回目です。二回目の終わりの時点でちょっと書くつもりにしていてそのままになっていたので。
嫁さんの英語の話を書くとこれを読んでいる本人からクレームがつくことは間違いないが、一切無視するものとして書きます。(笑)
うちの嫁さんは日本からこちらに来るまで「有体に言えば」全くそこら辺に居る標準的な日本人の英語能力でした。私が考える「標準的な」日本人の英語能力というのは、中学で英語を初めて習い始め、高校までは何とかペーパーテストを中心にして文法と読解中心の英語の授業を「凌いで」きた人々、と言うところでしょうか。作文のレベルは結局どういう大学を受験したかと言うのに比例し、会話に至ってはどういう大学を受験したかには関係なくかなり「あかん」というのが私のイメージする私の世代の「標準」としておきます。
英語を話す如何なる人から道端で突然、英語で何かを問いかけられてもまず何はさておき「ドキリ」とする、と言う感じだと想像していただければ良いかと思います。その人が、旦那の留学にあわせて一緒にアメリカに着たらどうなったのかと言うのが今回の話です。有体に言えば、最初はもうシドロモドロという感じで、それを傍から見ているこちらとしてはじれったいの一言でした。おまけに日本人コミュニティーが近所にあったと言う事もあり、同じ世代の子供達が集まっては嫁さん達もまた日本語でコミュニケートできるので特に英語を話す必要性も高くない、と言う状態が最初の五年ほど続きました。
ところがこちらに引っ越してくると事情は一変、日本人などまあ探したところでほぼ見あたらない環境下に置かれた上に、子供達が学校から持ち帰ってくる書類にも眼を通さなくてはならなくなってくるし、実際に子供の具合が悪くなったときに学校と電話でコミュニケートしなければならない事態も実際にあるなど、「話せない」では済まない事が多くなってきました。そうこうするうちに、自分で車で20分くらいのところにある教会で主催されている無料英語教室に行くと言い出しました。大いに結構と言う事で、暫く様子を見ていたのですが、確かに少しずつ語彙も増え、聞き取りの力も改善してきているようです。教会の無料教室にはメキシカン、ロシアン、コリアン、そして日本人と言う感じで来ている様で、皆余り変らない感じでお互い楽しんでると言う事でした。是非ともこのまま続けて頑張ってほしいものです。(いつもベッドの脇に線をたくさん引いた赤尾の豆単が置いてあるのは秘密かな。)
最後に、英語は戦後すぐに習って終わりだったと言う私の母の話をしてこの一連の英語の話を終わりたいと思います。
実は、私の当時60台半ばの母親がアメリカに遊びに来たときは魂消(たまげ)てしまいました。何がどうって英語などハローとイエス、ノーくらいしか「絶対に」知らないのですが、この母が買い物に一人で行って意気揚々と帰って来て一言、「いやー、レジの女の人と「会話を」楽しんできた~!面白くてゲラゲラ笑った!」とのたまうのでした。怖くて余り内容は聞けませんでしたが、(パンドラの箱を開けてしまうのが怖くて)どうやら双方が身振り手振りと完全な推測だけで、コミュニケーションを行ったことは間違いないようです。それでも、楽しんでくれたので良いとしよう、と思っていたのですが、後日その現場を別の形で見せ付けられる事になりました。
あるときボルチモアのインナーハーバーに行った時に、そこのHARD ROCK CAFEで買い物をすることになったのです。母親が、私に「滅多に来ることは無いから何か服を買ってやる、値段は問わない」と、その時点まで生まれてこの方母親の口から聞いたことの無いような台詞が出てきましたので、これは遺言かもしれないと勘違いし、素直に好意に甘えることにしました。(結局、幸い今でも母は元気そのものです。)ところが私の願った壁にかけてあるジャケットを棚から取る際に母が店員に取った行動を見て仰天しました。使った英語は「ジス」(多分THISの事だと思いますが、、、。)と「イエス、ノー」のみ。後は若い男性店員があたふたしながら、母親の指の指す先を泳ぐようにあたふたと動き回るのです。そして商品にたどり着くたびにそれを指差しては店員が、これか?という顔をするのだが母が「ノー、ジス、ジス」と言うたびにこれ?これ?と更に焦るのを見て、こちらは冷や汗が出るやら笑ってしまうやら。最後の最後で、財布から通常アメリカで生活している限り日常生活では先ず普通はお目にかかることの無い百ドル札を、数枚ゴソッと財布から取り出した時は、別の意味で気が遠くなりそうでした。(母ちゃん、こんな大金持ち歩いとったんかよ~!危ね~!)英語が話せない事など「全く」何とも思わないうちの母にとっては、アメリカで生きていくのは余り大きなストレスにはなりそうにもありません。(周りのサポートスタッフたるこちらが疲れそうです)
この母に買い物終了後、買い物英語通じなくて大丈夫だったか?と、わざと聞いたところ「馬鹿、問題ない。」一喝されました(笑)。それを見て、俺は母親のようには絶対に長生きできんな、と確信したものです。

結論:言葉なんて「道具」です。使って何ぼ。恥ずかしがっていたら何時までも役に立つ道具にはなりませんし、あなたが恥ずかしがっている事など相手は気にもしていません。道具は使い込めば、自然とその人の癖のついた良い味が出てくるものです。使いましょう。英語は「外国語の習得が世界で最も下手な」アメリカ人のために「使ってあげている」位に思っておけばよいのです。

2008年12月6日土曜日

博士号の季節

この時期アメリカはDissertationのdefenseの時期を迎えている。これは何かと言うと、まあ卒論の発表とでも言いましょうか。マスターコース、ドクターコースの学生どちらの場合でも、必ずこの局面を通り抜けていかなければならない。ここに至るまでには何度も公衆の面前で発表する機会があり、最後の関所に当たるのがこの発表会である。アメリカらしく?特に完璧な服装で望むと言うような事でもないのだがそれなりに学生とそのPIが緊張した面持ちでこの日を迎えるのである。これらの学生達は特に博士号の取得予定者達は当然の如く論文を発表しておかなければならず、その上で分厚いThesisを仕上げてそれを事前指定した審査委員会のメンバーに配り、その評価を受けておくのである。運が悪い?もしくは評価の低かった場合にはその旨が委員の中から発議され委員会メンバー同士の合議の後にその学生の卒業が延期される事がたまに起こるので、学生にも大打撃だがそのPIにとってもこれは冗談では済まないのである。
この時期、就職のことを考えつつ行動を起こしているものたちも多いわけで、万一そのような事態に至れば就職自体が危うくなる訳だ。みんなの緊張の面持ちの一端はそこから出てくるものでもあり、PIとしても(少なくとも私は)寝つきの悪い時期を迎える事となる。(実力のあるボスにとってはそんなことはほぼ有り得ない訳ですが、私のような小物ではないとも限らないので(笑)。)
昨日今日と、それぞれ他の生化学教室の学生達のプレゼンに行って来たがどうもデータが弱い。取り敢えず博士号は取ったみたいなのだが、全面的に発表されたデータの基づいた「仮説」を信じるきにはなれなかった。本質的に主張したい部分自体がかなり弱いデータの積み重ねで、その弱い部分を衝いて質問を続けると先ず間違いなく水掛け論になるので、その周りから質問をしていったがやはり上手く質問は捌いていたけれどもデータの強度と言う点では普遍性に欠ける気がした。(彼の発表では、ある分子の強制発現に伴うAKTのトランスアクティベーション。)
こんな感じの結果にならないように自分の実験結果ではもっとメリハリのついたものを出せるようにしたいものだ。何事も容易にいくものばかりではないと言う事を肝に銘じ、以て他山の石としなければ。

2008年12月5日金曜日

特許の話

特許と科学と言うのはいつもデリケートな問題を含んでいて中々一筋縄では済まない問題だ。特に大学だけで純粋に研究して特許の事など考える人も少なかったような大らかな時代ならいざ知らず、今では独立行政法人とか言う変な大学組織に改変されて以来、皆が殆ど金になどならないような事に関しても特許を提出しようとしているから大笑いだ。そういう私も、日本の大学に居たころクローニングに成功したある酵素に関する特許を連名で取得しており、今でもあれは何だったんだろうかと考えることがたまにある。特許をとったからといって、その使用を他の大学や研究機関の人間に制限するなどと言うのは科学に携わる人間としてはとても許されないと「感じる」のだ。これを倫理と言うべきかどうかは解らないが、論文で出したマテリアルに関してはその供給が物理的に可能である限り、それを他の研究室にMTA(Material Transfer Agreement)を書いた後、使わせてあげたいと思うし(個人的には相手が紳士である事を信じてMTAさえも書きたく等無いのだが大学の規定でそうもいかない)、その厚意に反するようなラボや個人はこの世界から自然に排斥されるような世界であるべきだと思うのだ。何と言おうと、ラボや大学の屋台骨を支えるような特許などと言うのは本当に稀にしか出ないわけであって、世の中そんなに上手くはいきませんよというのが多くの研究室の現状ではなかろうか。せいぜい作成した抗体を売るとか、その程度のもんだと思うのですが。
では稀な成功例の話を、、、これはイスラエルの研究所に勤める友人から聞いたのだが、彼の友人は循環器の造影に使うあるドラッグの研究をしていて、それを売って日本円にして何と60億円ものキャッシュを得たのだそうだ。これに怒ったのが研究所。この研究者、次に何をしたかというと、金に物を言わせてイスラエルとアメリカから最優秀の知財に関する弁護士を3人雇ってフルに研究所と戦わせたそうだ。結果はもちろん彼の完勝。とっとと研究所を止めて悠々自適の人生を送っているそうです。しかし勘違いしないでいただきたいのは、このような例は殆ど稀にしか起きないわけで、殆どの場合は投資した金すら回収できないで終わりと言うのが殆どだと言うのが実情だと思います。
これに企業が絡んでくると事は一層複雑怪奇でもうMTAを企業との間でやり取りするときなど本当にこちらの大学の弁護士と企業の弁護士との「言葉遊び」にウンザリさせられる。挙句の果てに6ヶ月の交渉の後に得たものは何も無し。などというのがザラで、こういうときはいつも「世界中の知財関係の弁護士は今この瞬間に全滅してくれ」と叫びたくなる。そこには人と人の善意に基づいた紳士協定などどこにも無く、ただ疑いに満ち満ちた欺瞞的な文言の遣り取りと、金銭の行き来がある極めてアメリカ的な世界なのだ。

あ~~~~あ。

人が人を信じる事が出来ない世界では弁護士だけが繁盛しますわ。

2008年12月4日木曜日

研究って何するの?

「医学」生物学の研究というのは最終的に疾患治療とか、生態現象の本質的解明を最終目標にしていると私は思っている。後者の記述も結局はそれを通じた疾患の治療へと繋がるわけで、全ては人間という生体そのものの解明にベクトルは向いているのだと思います。発生学、神経研究、癌研究、シグナリング、老化、細胞周期、どれをとっても人間とは何かというのを徹底的に分析していこうという方向性を持っている事には変わりない。
では日常のレベルで私達研究者が何をしているのかというのは研究をしたことの無い方々には当然謎の世界であるわけで、家内も私に出会うまでは何だか白い巨塔のようなところで試験管を振っている変った人たちの集まりと思っていたようだ。(本当のところ、変った人も多いですけど。)
実際は毎日細胞に餌をやったり、目に見えない分子を蛋白やDNA、RNAのレベルで色々な方法で検出したりして自分の立てた仮説を検証しつつ、やっぱり駄目だとかこれは良いよ~!などと一人で呟きながらしこしことコンピュータに向かってプレゼンテーションの準備、論文の推敲、そして学生達の指導、授業の準備、予算獲得のためのNIHその他のグラントを日々セッセ、セッセと頭を掻き掻き日々を過ごしているのが日常です。本当にしたいことは実験だけというのが理想なのですが、賢い学生を教える喜びというのは実利としても最終的に自分に跳ね返ってきますので中々それも止められないところです。(実際は「多大の」指導のための時間を割かねばなかなかそう上手くはいかない。安定した結果を学生が出せるようになるまでにはそれなりに学生のファインチューニングが必要なのです。(笑))
何度も冗談で家内に「少しお小遣いを出して実験助手にするから手伝わんか?」とカマをかけたが「死んでもいや、絶対いや」とにべも無く断られた。私も同感である(笑)。理由はと聞いたところ、幾らでも有るみたいでそれを列挙してみると、
1:一日中ただでさえ顔をつき合わせているときっと感情のもつれが有った時に距離を置く時間が無くなってそれを解きほぐす事が出来なくなる。2:DNAの抽出のような最初から最後までその対象物がわかりやすい形で視覚化されないような物を、長い時間自信をもって操作し続ける覚悟が無い。料理みたいに作っているものが目に見えて出来あがって行くのがよっぽど良い。3:失敗したら一方的にバカだのアホだのと攻められて泣いてしまいそう。とのことでした。なかなか良いところ衝いてるな、とわが嫁サンながら感心。
世の中には幾らでも夫婦で同じラボで働いてる研究者なんて居るぞと言ったのですが、まあダイヤのように固い意思で崩せそうに有りませんね。崩そうとも思いませんが。夫婦で同じラボで働く研究者と言うのは御当人達にはきっと都合が良いのでしょうが、その下で働く人間にはその夫婦の日常がダイレクトに反映される事になります。(私、そういうところで働いていた事がありますので。)
まあ、当たり障り無く感想を述べさせていただくとすればある人にとっての便利は他の人にとっての不便である事もあるわけで、「一長一短」ですよね。

2008年12月3日水曜日

医療崩壊とは言いますが

昨日も日本のニュースを読んでいたら、また妊婦さんが病院に引く受けてもらえず未熟児が死亡、、、と言う様な記事が出ていた。医療の崩壊、特に産婦人科と小児科の崩壊が叫ばれてもうずいぶん長くなりますが、疑ってみるべきはまずは多くの新聞社配信のネット記事の内容が本当に字面通りなのかなのかという事が一つ、患者の側の変化はどうなのかという事が一つ、そして医師の側の変化はどうなのかという事が一つだと思う。
先ずは報道。売文屋が何を書いてそれを誰が買おうが知った事では有りませんが、ここで考えて見ましょう。
出生数の近年の推移を統計で見てみると百万人プラス十万人前後というのがトレンドのようです。つまり、何のかんの言っても、日本では年間少なくとも百万回の分娩が行われているわけです。そして周産期死亡率は世界各国の中でトップクラス、妊婦の死亡率の低さでもトップクラスです。妊婦の死亡率はデータを見れば解るように、年を追う毎に下がってきており、この4という死亡率を100万件の出生に換算すれば、約40人の方が亡くなられている事になります。高齢出産や、その他のハイリスクの妊婦さんを全て入れてこれだけの妊婦死亡率を達成できるという事実。これは私は物凄い高度なレベルの医療だと思うのですが。
前回の脳出血を疑う妊婦の「盥回し報道」の件でも鬼の頸を取ったような記述をしていたが、そのうち実際にどの病院が「責任を持って」分娩と同時にその頭部出血を疑われる妊婦を受け入れる事が出来たのか、詳細な報道などというのは全く続報として見かけない。全く無責任極まる「いつもの」センセーショナリズムの一環だ。マッチポンプの売文屋。自分の名前を記事に記した上で責任ある報道というものをしてほしいものだ。(万一にもその能力があればの話だが。無理なのは解っているので。(笑))

患者さんの方はどうか、患者の質に変化は無いのだろうか。まず、私は患者サマという様な呼び方を始めたアホとは一緒の目線に立ちたくないので、意地でも患者サマなどとは呼ばない。医師の側から患者に距離をとってどうするというのだろう?医師にとって患者は自分の家族の一員と同じレベルで治療しないといけない相手であり、もしその相手が自分の家族だったら無条件にベストを尽くす事は患者サマ等という愚にもつかない名称に無い知恵を絞らなくても、理に適っていないかとおもうのだが。医師でも当然のようにいつでも患者の側に成り得るのだ。その時に医療関係者から患者サマとか呼ばれたら、そいつを殴ってやろうかと思う位嫌いな呼び方だ。生理的に受け付けないし、自分が患者になったとき「様」付けされてまともで居られる神経というのが理解できない。医師も患者も全く対等な関係であり、医師は患者から病気だけでなく多くを学ばせて貰っているのだ。どちらが上だという事も無く、患者も医師にとっては商品としての客ではない。(こんな事を考える暇のある下衆な経営者にとっては顧客なのでしょうが。)

本当に、今思い出すだけでも人として、頭が自然に下がってしまう様な多くの患者さんに出会う事が出来た。慢性疾患を抱えた方、当時の医学では治療の方法が無く決然と、そして従容として来世に旅立たれた方。その立派な最後をお見送りして涙が止まらなかった方。入院の時に子供に頭蓋内悪性腫瘍が見つかり、時間とともに症状が急速に悪化して行き、元気に走り回っていた子供が最後は冷たくなって病院から出て行った時の事、初めて間近で見た新生児の出産介助での感動、人の生と死が文字通り隣り合わせの日常であるからこそ、その密度の濃い時間は多分、それ以外の職業に疲れた方とは異質の経験が医師を待ち受けているのだ。他の仕事も患者さんが他からお話を伺う事によって「これは面白そうだ」とか「身体が二つあったらこれもやってみたいな」というような職業も幾つかあったが、医師に初めてなって経験するその日々はジェットコースターの最前列にシートベルト無しで乗る様な緊張を強いられる日々でした。
しかし報道される中には私があった多くの患者さんの中には余り見受けられなかったような人物も居るという事のようだ。まあ、売文屋の書いた文章なので8割引いて読むとしても当然、変な人間はどの社会の中にもある一定の割合で居る上に、病魔は人の性格を選ばず襲ってきますので、そのような人達が病院でオカシナことをするというのは昔からあることだったのではないかと思います。昔であれば意志の側の「権威」というものがそういう輩を叱り付ける事によって話は「終わり」だったのでしょうが。今の時代は患者サマとそれに奉仕する医療機関という図式を時代が総掛かりで作り出した為に一部の勘違いの大きな連中が数を伸ばしてきたという事なのでしょうか。(成人式で可笑しな格好で騒ぐ、猿達を思い出してしまう。)モンスターなどではなくただひたすら教育の効果が及ばなかった「馬鹿」。それ以上でもそれ以下でも無いと思いますが。ただこの手の人達が医師や看護職の人間を疲れさせるのは間違いなく問題だと思います。どうすべきか、、、。難しいところですが、幾つか簡単なフィルターをかけていくというのはどうかなと考えます。どんなフィルターか、、、。いくつもある問題とそのフィルターの関連の中から一つ出すとすれば、救急車の有料化を先ず挙げます。これで少なくとも救急車をタクシー代わりに使って本当に必要な人の命を奪う似非患者の来院を大幅にカットする事が出来ると思います。
包み隠さず一言で言えば「医療には金がかかる」という事実を周知徹底する事だと思うのです。その事実が税金からの徴収であれ、実際に払う保険料であれ、直接払う医療費であれ、患者さんには大きくのしかかってくる事実なのです。この前、大きな病気になったとき本当にそう思いました。先進国であるという事は、そうでなかったころには出来なかった「医療に金をかける事が出来る事が出来る国家になった」という事ではないでしょうか。

ここに医療にお金をかけなくなった国家の一例があります。何が起きたかはお読みくださればわかるかと。
ニュージーランドの医療行政の崩壊

医療行為を通じて理解できた事は人の命を助けるという行為にはまさに「時間」と「金」と「人」の三要素が大きくかかってくるという事でした。時間は患者さんのリハビリまで入れた来院から退院そして、フォローアップケアまで入れた時間、全ての流れ。お金の部分は医療機器、病院施設、医師、看護士、介護士、リハビリセンター、事務、薬局そして施設の維持に働く方々。人の部分はそれぞれの部門で働く人達に要求される患者さんたちに対する各々の膨大な人的、知的貢献です。医師も本当に生死の境を彷徨う方をケアするために二日も三日も家に帰る事が出来ないような状態で、家から嫁さんに着替えの服を持って来てもらったりしながら、出前の飯を胃に掻き込み次のもしもの瞬間に備えるような緊張した日々の中で、短い隙間を縫って当直室のベッドで泥のように眠る事が始終あります。そしてその中で次の学会の公演準備や症例報告のまとめをしているのが多くの勤務医ではないかと思います。売文屋共の企みに少しもその志をそがれることなくこれからも真っ直ぐに誇りを持って日常診療に当たっていただきたいと思います。
テレビに出てくるようなイカガワシイ豊胸専門、チンコの皮取り専門の美容整形外科や、脂ぎった顔をして次の選挙でどの党を応援するかは私の胸先三寸というような顔をしてコメントをたれているような日本医師会のバカ、そして頓珍漢な事を気取って縷々述べる香山リカのような人間ばかりが医者ではないのです。

2008年12月2日火曜日

幸せを感じるとき

私の尊敬する先輩研究者が、その上のPIから話されたという話を一つ。(この手の話は対象を変え、どこかに良くあるものとは思いますが。)

ここにコップに半分だけ入った水がある。
このコップの水を見て「まだ半分ある」と感じるか、「もう半分しかない」と感じるか。
それがその人の生き方に結びついている。

こういうものでした。
私はそれを聞いて、心からその通りだと思いました。
自分は宗教とか信心とかには全く関係ない日常を送っているけれども、やはり仏教やキリスト教、果てはコーランの中に書かれている言葉の中にも、短いけれども人生の本質を抉り取るような鋭い警句が沢山ありますし、それに反省される事もしばしばです。何かに幸せを感じるときというのは自分にとってどういう時なのかつらつら考える事がありますが、どんなサイズのものであれ、困難が自分の前を通り抜けたときに感じる事が多いと思います。また、自分の日常が何もどでかいドラマが無いという事、例えば子供達が普通に学校に行って良い点を取ったとき、長く上手くいかなかった実験が、プロトコルを変えてみて実験が上手くいき、面白そうなデータが出た時等、、、。
しかし何かネガティブな事が起きたとき、実際に感じる幸せは何か。(実際に私の身にも大手術を要する大きな良くないイベントが起きたのですが。)やっぱり普通に元気に朝起きて、ご飯を食べて仕事をし、子供の寝顔を見て家内ととりとめも無い話をすることだなと感じます。子供の学校の成績、大事でしょう。仕事の成果、大事でしょう。しかし、一度家族のみに何か起きたときに思うのは、「そんなことどうでも良いから先ずは元気が何より!!」という事です。家族が幸せであれば自分の身などどうなっても良いと心底思いますし、健康こそは何よりも大切な事なのだと本当に思います。
やがて自分も大きく歳をとり、小さいころにはまとめて抱え上げ、悪い事をしては叱っていた子供達からやがては包み込まれるようになる時が来るのも実はそんなに遠くない時期なのかもしれません。全ての事は順繰りに歳の順番に回ってくるのだと思います。
自分が何に幸せを感じるのか、つまらない事で日常の充分に幸せな何気ない生活をそうでないものとして捉えるような事をしていないのか、いつも振り返り、振り返りしつつ注意していかなければならないと思います。テレビドラマのように皆が皆、ジェットコースターのような人生を送るわけでも無し、その必然性もまた無いと思います。普段の日常の中での楽しい事、面白い事、恥ずかしい事、頭にくる事、うれしい事、悲しい事、その大きさの大小には様々有ると思いますがそれこそが市井の人の普通の生き方だと思います。
コップの水の量をどう捉えるかは自分自身の生き方を決めるという事でしょう。

2008年12月1日月曜日

ニュースとは-続き

さて話がまたまた脱線しましたが、こちらの国でもテレビや新聞の質などと言うのはいつも格好の揶揄の対象でしかないみたいです(少なくとも私の周囲では)。ある友人が喝破するに「新聞で正しいのは日付と新聞の名前のみ」とのことだった。これにはその短い言葉の切れ味に脱帽してしまったものだ。新聞社が誇らしげに自分を表現するときに使う「クオリティーペーパー」という自称は、これまた大笑いのネタで、そんな事をまともに信じている人は科学の世界に居る友人達には少ないと思います。質の悪い冗談としては受け取れますが、『何々系列』とかいわれているような新聞や、テレビ局などは殆ど読むにも視聴するにも値しないようなメディアばかりです。FOX然り、WASHINGTON POST然り、NY TIMESも無論、滅茶苦茶。
選挙の候補者や政党、政策への肩入れの仕方はまあ、精々ゴシップ週刊誌と同じレベルの記事と考えた方が良いと思います。こういうあたりは日本も何も変わらない感じでしょうかね。センセーショナルな記事を書いて耳目を集めなければならない売文はやはり売文と呼ばれるだけの品質でしかないと思います。
新聞記者の記事の方が文章が洗練されているとか感じる事はまず無いし、その記者の事件に対する分析力も、偏向の度合いもまあ、呆れる様なものが殆どでは無いかというのが正直な所です。
何がそういう記事を書かせるのだか良く解りませんが、少なくとも不偏不党とは全く縁が無いと思います。~主義とか、~イズムとか言うのが大嫌いな私の眼からは、最初から事実の論評を結論づけた上でそれに沿った事件報道をするなどというのは、もう最悪の世論誘導だと思います。殆どの事件には読み手がもっと知りたい裏側があるのに、結局その読み手が推測できるのと同じ目線でしか記事が書けないなどというのはもう給料もらう資格が無いと思うんですが。(ほぼ全員無くなるか?)
おまけに新聞やテレビで大嫌いなもう一つの事はその継続性の無さ。大切な事は時間系列に関係なく、人々が忘れ去らないように追求を続けるべきものであり、喚起したい世論があるのならば正当な理論を持って力を入れるべきかとも思いますが、所詮、公器としては作用する運命に無い売文組織にはそういう期待は無理でしょう。
時の首相の人気度調査で今回は何パーセント上がった下がった等というのはポピュリズムの最たる物。前の戦争で世論を誘導し多くの国民を死に導いた挙げ句、戦後は素知らぬ顔で人民の云々等と「どのツラ下げて」正義を人に説くのか、遺伝子レベルで何も変わっていないのは明白です。
地球環境と将来の日本の為にも「押し紙」新聞の販売は一刻も早く無くなるべきで、子供に一人前の判断力がつくまで積極的には新聞を子供に読ませないのは親の大切な仕事なのではないかと考える私です。少なくとも自分の主張こそが唯一正しいという様な馬鹿な人間にはなってほしくないと願うのですが、、、。
まあ、この文章自体にも矛盾があると考えているだけ新聞記者より半歩分ましか。(笑)